<皇孫系氏族>天智天皇後裔

K306:天智天皇 〔天智天皇後裔〕淡海三船 OI01:淡海三船

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淡海三船

 天平年間に唐僧・道璿に従って出家し元開と号す。しかし、天平勝宝3年(751年)30人ほどの諸王に対して真人姓の賜姓降下が行われた際、勅命により還俗して御船王に戻ったのち、淡海真人の氏姓を与えられ臣籍降下、淡海三船と名を改めた。天平勝宝8年(756年)朝廷を誹謗したとして、出雲守・大伴古慈斐と共に衛士府に禁固され、間もなく放免されている。
 淳仁朝では、天平宝字8年(764年)9月に発生した恵美押勝の乱の際に、藤原仲麻呂が宇治から近江国へ逃れ各地に使者を派遣して兵馬の調達をしていたところ、造池使としてため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野と共に仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢して活動する。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。
 聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。また書を書くことを非常に好んだという。奈良時代末期に文人として石上宅嗣と双璧をなし、二人が「文人の首」と称されたという。若いときに唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。『経国集』に漢詩5首を載せ、現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説が有力である。また、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(当時は帝に数えられていなかった曽祖父の弘文天皇と、すでに諡号を贈られていた文武天皇を除く)と15代帝に数えられていた神功皇后の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。「文武天皇」の初出は『懐風藻』であり、この諡号にも三船が関与した可能性はある。また、宝亀10年(779年)には鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記した。『続日本紀』前半の編集にも関与したとされる。