もと桜井王を称し、臣籍降下後の氏姓は大原真人。和銅7年(714年)無位から従五位下に直叙される。養老5年(721年)従五位上。同年に井上内親王が斎王に卜定されて伊勢神宮への奉幣を行った際、葛城王らと共に輿長を務めている。 神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく正五位下に叙せられると以降、聖武朝前半にて順調に昇進した。またこの頃、侍従として聖武天皇に仕えた兄弟と想定される門部王ら10余人と共に「風流侍従」と称された。 天平11年(739年)兄弟の高安王,門部王らと共に大原真人姓を賜与され臣籍降下する。大蔵卿在任時の天平16年(744年)には、聖武天皇の難波宮行幸に際して、恭仁京の留守司に任ぜられている。 のち、弾正尹も務め、『万葉集』に採録された和歌によると、孝謙朝の天平勝宝8歳(756年)頃まで存命であったとされる。万葉歌人として、天平5年(732年)頃以降の遠江守在任時に聖武天皇と贈答した和歌と、天平勝宝8年(756年)頃に佐保川の辺で詠んだ和歌が『万葉集』に採録されている。
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称徳朝にて大原真人姓から服部真人姓に改姓させられるが、光仁朝の宝亀3年(771年)本姓の大原真人姓に復す。 桓武朝の延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、平城朝の大同3年(808年)備後守に任官する。嵯峨朝では弘仁3年(812年)従五位上に昇叙され、弘仁5年(814年)民部大輔に任ぜられた。
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もと門部王を称し、臣籍降下後の氏姓は大原真人。和銅3年(710年)無位から従五位下に直叙される。元正朝から聖武朝初頭にかけて順調に昇進する。一方で、伊勢国司在任中の養老3年(719年)に按察使が設置されると、伊賀・志摩両国を管轄、養老年間から神亀年間ごろに出雲守を務めるなど地方官を歴任した。神亀年間から天平年間初頭にかけては、兄弟の桜井王始め侍従として聖武天皇に仕えた10余人と共に「風流侍従」と称された。天平6年(734年)朱雀門前で歌垣が開催された際には、長田王,栗栖王,野中王らと共に頭を務めている。 聖武朝後半は右京大夫,大蔵卿と京官を歴任し、天平14年(742年)従四位上に至る。この間の天平11年(739年)には兄弟の高安王,桜井王と共に大原真人姓を賜与され臣籍降下している。天平17年(745年)4月23日卒去。最終官位は大蔵卿従四位上。 万葉歌人として、伊勢守の任期を終えて帰京した際に詠んだ1首と、出雲守在任時の2首[5]の合わせて3首が『万葉集』に採録されている。
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天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終了後に、大原都良麻呂から浄原浄貞に改姓改名した。天平神護2年(766年)田口安麻呂,息長道足,粟田鷹守,輔治野清麻呂(のち和気清麻呂),藤原種継とともに従五位下に叙爵する。神護景雲2年(768年)宮内省次官が両方交代し、大輔に榎井小祖が、少輔に浄貞が補せられた。 光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)摂津亮、宝亀3年(772年)周防守、宝亀5年(774年)摂津亮と地方官を歴任する。またこの間の宝亀3年(772年)には大原真人の氏姓に復しているが、これには称徳天皇による氏名変更を是正する目的があったという。 宝亀7年(776年)右衛士府の大幅な体制変更があり、右衛士督に藤原小黒麻呂が、右衛士佐に巨勢池長が、右衛士員外佐に浄貞がそれぞれ任ぜられている。宝亀9年(778年)2月に石川望足の後任の信濃守に補せられ再び地方官に転じるが、早くも同年8月には大伴不破麻呂に交替した。
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