K302:欽明天皇 | 継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 | K304:敏達天皇 |
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敏達天皇(淳中倉太珠敷尊) | 橘大郎女 |
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同母兄・箭田珠勝大兄皇子が欽明天皇13年(552年?)4月に薨去したことを受け、同15年1月7日(554年2月24日?)に皇太子となる。欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?)の欽明天皇崩御を受け、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)即位。 |
622年に聖徳太子が死ぬと、橘大郎女は推古天皇に願い出て、釆女に天寿国曼荼羅繍帳(天寿国繍帳とも言う)を作らせた。これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる天寿国の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺繍で、国宝に指定されている。中宮寺に伝わっていたが大部分が失われ、現在では残片が残るのみである。 |
竹田皇子 |
大派皇子 |
用明天皇の崩御後、押坂彦人大兄皇子と共に有力皇位継承権者であったと『日本書紀』などでは記されているが、叔父の穴穂部皇子を推す勢力から敵視され、用明天皇2年(587年)にはその一派である中臣勝海に像を作り呪詛されている。 |
別の記述では「大俣王」とも書かれることから、敏達天皇の孫「大俣王」と同一人物と見る説もある。 |
田眼皇子 |
栗隈王 |
甥の舒明天皇の妃となり、子女は不詳とされている。父・敏達天皇が敏達天皇14年8月15日(585年9月14日)に崩御したことと、同母妹に桜井弓張皇女がいることから判断すると、遅くとも敏達天皇14年の生まれとなり、夫の舒明天皇より8歳以上年上となる。尚且つ桜井弓張皇女は田眼皇女の同母妹であるにも拘らず、舒明天皇の父・押坂彦人大兄皇子の妃となったと言われる。日本書紀の舒明紀には舒明天皇の后妃紹介記事に載せられていないことや、敏達,推古両天皇の皇女である彼女よりも天皇との血統が遠い(敏達天皇の曾孫)宝女王(のちの皇極天皇)が舒明天皇の皇后とされている点から、舒明天皇即位前に亡くなったと推測される。 |
栗隈王は壬申の乱が勃発したときにも筑紫太宰の地位にあって筑紫にいた。 当時の日本は白村江の戦いで敗れてから朝鮮半島への進出を断念していたが、半島では新羅と唐が戦い続けていた。百済・高句麗は滅ぼされたが、唐は新羅支配下にある百済の復興運動を、新羅は唐支配下にある高句麗の復興運動を後押しし、各国とも日本に使者を派遣して親を通じようとした。それゆえ筑紫帥の役割は軍事・外交ともに重要であった。 |
高坂王 |
石川王 |
壬申の乱の勃発時、高坂王は倭京で留守司を務めていた。倭京とは、当時の都である近江大津京に対する飛鳥の古都を指し、留守司とはこの倭京を預かる役人である。 |
『播磨国風土記』に、石川王が総領だったときに都可の村を広山の里と改名したと記す箇所がある。また、『日本書紀』によれば679年の死亡時に石川王は吉備大宰であった。総領と大宰は同一の役職の別表記と考えられているので、石川王は吉備大宰(吉備総領)として少なくとも吉備国(後の備前国・備中国・備後国・美作国)と播磨国を治めたと推測できる。 |
稚狭王 |
美努王 |
天武天皇元年(672年)6月に大海人皇子が挙兵すると、大友皇子は倭京(飛鳥の古い都)の留守司高坂王に軍を編成させた。このとき稚狭王も倭京にあってその仕事に携わっていたらしい。しかし、大海人皇子に与した大伴吹負は、少数で乗り込んで敵軍の指揮権を奪取する計略を立てた。内応を得て軍を従わせた吹負は、穂積百足を殺し、穂積五百枝と物部日向を捕らえた。五百枝と日向は後に赦されて吹負の軍に加わった。高坂王と稚狭王も軍に従った。 |
天武天皇元年(672年)6月に壬申の乱が起こった際に、大友皇子側の近江朝廷の命令を受けて軍兵を徴発するために佐伯男が筑紫に下向してきたが、筑紫大宰・栗隈王は外敵への備えを理由に徴発を拒否した。佐伯男は命令に従わない場合は殺すようにも命じられていたが、王の2人の息子である三野王と武家王が太刀を帯びて近くに侍していたために任務を果たすことができなかったという。 |