<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

K304:敏達天皇

 橘 佐為

TB31:橘 佐為

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橘 佐為 広岡百枝

 和銅7年(714年)二世王の蔭位により无位から従五位下に叙爵。養老5年(721年)従五位上に叙せられ、まもなく紀男人,山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられる。    
 聖武朝に入ると、神亀元年(724年)正五位下、神亀4年(727年)従四位下、天平3年(731年)従四位上と順調に昇進した。天平8年(736年)兄・葛城王と共に、母・県犬養三千代が和銅元年(708年)に与えられた橘宿禰姓の賜与を願い許されて臣籍降下し、橘佐為と名乗る。天平9年(737年)2月に正四位下に叙せられるが、おりから流行していた天然痘より同年8月1日に卒去。最終官位は中宮大夫兼右兵衛率正四位下。

 延暦18年(799年)内舎人に任ぜられる。大同2年(806年)に発生した伊予親王の変に連座して、常陸員外掾に左遷される。
 その後、罪から許されたらしく、嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵。淳和朝の天長7年(830年)従五位上・伊勢介に叙任される。仁明朝後半に昇進し、承和13年(846年)正五位下、承和15年(848年)従四位下に至る。長命を保ち、桓武,平城,嵯峨,淳和,仁明,文徳の六朝に仕えた。仁寿4年(854年)4月2日卒去。享年80。最終官位は散位従四位下。
 文書を理解できなかった一方、鷹や猟犬などの狩猟を好み、常に漁撈と狩猟を行い休むことがなかった。剃髪して僧侶となり、臭いの強い野菜を食さなかった。大和国山辺郡に邸宅があったが、ある時に、池の堤が崩れ壊れるほどの洪水により、建物はことごとく流失してしまったが、百枝だけは身体を木に紐で繋ぎ止めて、僅かに生き残ることができたという。

広岡古那可智 広岡真都我

 天平8年(736年)11月、伯父の橘諸兄,父の橘佐為らとともに、橘宿禰の賜姓を受け、天平9年(737年)2月に無位から従三位に叙せられており、同時に父佐為も従四位上から正四位下に昇進している。このため、この時期に聖武天皇の夫人となったとされているが、既に皇子を生んでいる県犬養広刀自も同時に無位から従三位に叙位されていることから天皇のキサキになった時期とは分けて考えるべきだという見方もあり、光明皇后の実母で宮廷に大きな影響力があった祖母・県犬養三千代の存命中にその後ろ盾で入内したとする説もある。
 天平21年(749年)4月、聖武天皇の東大寺行幸の折に正三位から従二位に昇進した。その後、正二位に昇叙され、橘奈良麻呂の乱が起こった2ヵ月後の天平宝字元年(757年)閏8月、妹真都我や同族の橘綿裳らとともに橘氏を改めて広岡朝臣姓を賜った。天平宝字3年(759年)7月に薨去したが、聖武天皇との間に皇子女はいなかった。
 大和国添上郡広岡にある普光寺は、古那可智が聖武天皇のために建立したといわれている。同寺は天平勝宝5年(752年)に創建され、古那可智逝去の翌年である天平宝字4年(760年)に定額寺の待遇を受けている。橘奈良麻呂の乱後にも関わらず、古那可智ゆかりの寺院を当時の藤原仲麻呂政権が庇護したのは、彼女が宗家と異なり、叔母の光明皇后と共に藤原氏に近い立場を取っていたからと推測する説もある。

 孝謙朝の橘奈良麻呂の乱の約2ヶ月後の天平勝宝9年(757年)閏8月に、聖武天皇の夫人であった姉の古那可智,兄の橘綿裳らとともに広岡氏を授かっている。
 淳仁朝の天平宝字5年(761年)正月には、藤原仲麻呂の娘の額とともに無位から従五位下に昇叙し、この時は橘姓に復しており、宿禰姓になっている。
 称徳朝の天平神護元年(765年)には、県犬養姉女らとともに従五位上。光仁朝の宝亀2年(771年)には正五位下で、この時までに朝臣姓に復している。同3年(772年)、久米若女とともに正五位上、同7年(776年)、多治比古奈禰,久米若女とともに従四位下に昇叙する。
 桓武朝の延暦4年(785年)に藤原諸姉,百済王明信ともに正四位上になり、翌5年(786年)には藤原諸姉,紀宮子とともに従三位に昇る。
 藤原乙麻呂に嫁して許人麿を産み、乙麻呂亡き後は、その継子の是公の妾として真友・雄友・弟友の母となっている。『公卿補任』延暦9年条には、藤原雄友は右大臣是公の三男で、母親は「尚蔵三位麻通我朝臣」とあり、延暦13年条にも藤原真友は是公の二男で、母親は雄友と同じであり、「尚侍従三位麻乙朝臣」と記されている。『尊卑分脈』には、「尚蔵従三位麻通我」とも記されている。