<桓武平氏>高望王系

H402:平 将常  桓武天皇 ― 平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 千葉胤政 H440:千葉胤政

 

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千葉胤政 千葉成胤

 通称は千葉新介。治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に際して父と共に頼朝に従って参戦する。養和元年(1181年)4月、胤正は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。
 文治5年(1189年)の奥州合戦にも参戦して武功を挙げた。翌年に奥州藤原氏の残党・大河兼任が反乱したときには、この鎮圧で功を挙げている。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。
 生没年は詳しく分かっておらず、通説は建仁3年(1192年)7月20日に63歳で没したとされている。だが、建仁2年(1191年)7月7日に67歳で没したとする説もある。いずれにしても、建仁元年に没した父の後を追うように死去したものと思われる。家督は子の成胤が継いだ。 

 治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国に逃れた際、祖父・常胤や父・胤正と共に頼朝の軍に参加し、平家の総帥・清盛の姉婿・藤原親政を生虜にするという快挙を成し遂げ、治承・寿永の乱を制する原動力となった。
 『吾妻鏡』によると、叔父・東胤頼が安房国に逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、祖父・常胤もこれを認めて頼朝の軍に合流することを決定し、東胤頼と成胤は千葉荘を後にするに際し下総目代を襲い攻め滅ぼした。そのため下総国千田荘領家で皇嘉門院判官代の藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になった。わずか七騎で迎え撃った成胤はたちまち絶体絶命の窮地に陥るが、それでも奮戦し遂に親政を生虜にしたと言う。親政を生虜にしたことで様子見していた上総広常など坂東の武士団がこぞって頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回ることになった。
 文治5年(1189年)、奥州合戦にも加わって功を挙げた。建仁3年(1203年)の父の死により、家督を継いで当主となる。建暦2年(1212年)6月7日、侍所の建物内において御家人同士が刃傷事件を起こし、将軍・源実朝が穢れを理由に建物を破却しようとした時に、「武家の棟梁」が血を穢れとして恐れることに異論を挟んでこれを諌めたが、実朝は立替を強行した。建暦3年(1213年)、泉親衡の乱を未然に防ぐという武功を挙げた。同年の和田合戦においても北条義時側に与して功を挙げた。
 建保6年(1218年)4月10日に死去し、跡を長男の千葉胤綱が継いだ。

千葉胤綱 千葉時胤

 建保6年(1218年)、父の跡を継いで当主となる。承久元(1219年)7月、4代将軍として迎えられた藤原頼経の鎌倉下向に供奉。
 承久3年(1221年)の承久の乱では北条泰時と共に東海道を西上し、功を挙げた。戦後、上皇に加担した坊門忠信の身柄を預かり、途中まで連行している。なお、忠信は途中で身柄を釈放されている。
 安貞2年(1228年)5月28日、21歳の若さで死去し、跡を弟の千葉時胤が継いだとされている。ただし、本土寺の過去帳に載せられている「千葉介代々御先祖次第」には、「第四 胤綱 卅一歳、安貞二年戊午五月廿八日」と記されており、また九州千葉氏の子孫に伝えられた『平朝臣徳嶋系図』も享年を31歳とする。更に承久の乱で14歳の若武者が一軍を率いるという年齢的な問題もあることから、享年31を採用して建久9年(1198年)生まれとし、『千葉大系図』では成胤の子(胤綱の弟)とされている時胤・泰胤兄弟を胤綱の実子とする説もある。
 『古今著聞集』によると、年若い胤綱が将軍御所の侍の間で、当時権勢を振るっていた重鎮の三浦義村の上座に座り、義村が「下総犬は臥所を知らぬぞよ」と皮肉ると、胤綱は「三浦犬は友をくらふ也」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判したという。 

 千葉成胤が没した建保6年(1218年)に生まれる。北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権・北条泰時より偏諱を受けて時胤と名乗る。安貞2年(1228年)、胤綱の死により千葉介を継承する。
 嘉禎元年(1235年)、京都において平経高邸に「千葉介某の手の者」が乱入した(原因は経高の子・経氏と千葉氏家臣の間の女性問題であるという。この時の千葉介はまだ13歳の時胤であった。翌2年(1236年)に下総国一宮である香取社造営(遷宮)の宣旨を受けている。同4年(1238年)には将軍・藤原頼経の上洛があり、時胤も供奉する予定であったが、執権である北条泰時の命令によって香取社の造営が終わっていないことを理由に上洛を止められている(この命令の背景には上洛によって香取社の造営が遅れることや千葉氏に対する二重の財政負担につながることを幕府側が危惧したとみられ、後に上洛に従った下総国の地頭に対しても時胤の事例を引きながら帰国するように命令が出されている)。その香取社の造営が完了しない仁治2年(1241年)に24歳の若さで没し、子の頼胤が跡を継いだ。

 

千葉頼胤 境 常秀

 仁治2年(1241年)、父・時胤が死去したため、わずか3歳という幼少で家督を継いだ。当時の千葉氏は若い当主が相次いだため、鎌倉幕府の評定衆を務めた一族の千葉秀胤が力を持ち、頼胤の後見として事実上の惣領となるが、宝治元年(1247年)に宝治合戦が起きると、幕府の命令で一族の秀胤とその一派は滅ぼされる。だが、当時頼胤は幼かったため、父の兄弟である千葉泰胤ら一族の者が任を代行した。この乱で幼少の頼胤の責任は問われなかったものの、一族の多くが処分されており、頼胤や泰胤は一度失われた千葉氏宗家の権威と一族の結束を回復させるために千葉氏と妙見菩薩の関係を強調する“妙見説話”を前面に押し出したとする見方がある。
 建長元年(1249年)、香取神宮の遷宮に際して正神殿・一鳥居などを造営するに功を挙げた。しかし、頼胤は博打を好む人物だったらしく、翌建長2年(1250年)には幕府より博打禁制の命令が出されている。
 前述まではまだ幼少の時期と言える段階であるため、幼名の亀若丸を名乗っていたものとみられるが、元服後の「頼胤」の名が初めて史料上に現れるのは、『吾妻鏡』に建長5年(1253年)に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中での後陣の供奉の一人として挙げられている「千葉介頼胤」の記述であり、この時までに当時の北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼の偏諱を受けて名乗ったものとみられる。
 やがて時頼の子・時宗の代になって元寇がおきると異国警固番役のために出陣し、元軍と戦ったが、傷を負い、建治元年(1275年)8月16日に37歳で死去。跡を子の千葉宗胤が継いだ。
 なお、千葉頼胤については常胤の7男とし、文治5年(1190)閏4月28日、奥州合戦で軍功があり、磐井郡東山長坂を領して長坂千葉を称したとする伝承(時代が合わない)もあり、不明な点が残る。

 通称である「境」は千葉氏の本拠である千葉荘の外れにあった境川(現在の村田川)流域に拠点があったからとされ、後に下総国垣生荘及び上総国玉崎荘などを支配して玉崎荘の大柳館を拠点とし、更に千葉荘とは境川対岸の上総国市原郡にも進出することになる。元暦元年(1184年)に、祖父・千葉常胤とともに源範頼の平氏追討軍に参加して周防・豊後を転戦、文治5年(1189年)の奥州合戦でも祖父とともに多賀城に入っている。
 建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に従い、祖父の譲りによって左兵衛尉に任ぜられる。5年後の頼朝上洛にも随行して東大寺の大仏殿落成供養に随行している。正治2年(1200年)には、源頼家に供奉して鶴岡八幡宮に参詣する。建仁3年(1203年)には源親広とともに鎌倉中寺社奉行に任ぜられた。元久2年(1205年)の畠山重忠の乱には北条義時に従って後陣に詰めた。
 承久元年(1219年)には源実朝右大臣就任の鶴岡八幡宮拝賀に供奉し、実朝暗殺事件に遭遇した。嘉禄元年(1225年)には小山朝政とともに従五位下下総守に任じられ、後に上総介に転じて嘉禎元年(1235年)の明王院の供養に際して九条頼経に供奉している。
官位などは宗家を継いだ兄・成胤を越え、更には千葉介(下総介)の上官である下総守、ついで親王任国である上総国衙の最高の地位である上総介の地位を得て、宗家をしのぐ地位を獲得するに至った。更に『千葉大系図』には上総守護に補任されたと記されており、源頼朝に討たれた上総広常の子孫に代わって上総氏の地位を継承したとする見方もあるが明証はない。没年は不詳だが、嘉禎4年(1238年)から仁治2年(1241年)の間と推定されている。 

境 秀胤

 仁治元年(1240年)に従五位下上総権介に任ぜられ、将軍・九条頼経の二所参詣に供奉している。寛元元年(1243年)には従五位上に叙せられ、翌年には評定衆に加えられるが、千葉氏では唯一の例である。
 幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時,藤原定員,後藤基綱,三浦光村,藤原為佐,三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権・北条経時と対抗した。寛元4年(1246年)に執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時,藤原定員が失脚すると、6月7日には千葉秀胤,後藤基綱,藤原為佐,三善康持の4名の評定衆が更迭、更に6月13日秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える。これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている。
 宝治元年(1247年)6月の宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると、6月6日に三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ、翌7日には千葉氏一族の大須賀胤氏,東胤行らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち、4人の息子をはじめとする一族郎党163名とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている。
 なお、『吾妻鏡』によれば、その際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の時常も駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命されたが、これによって上総千葉氏は滅亡した。