<桓武平氏>高望王系

H440:千葉胤政  桓武天皇 ― 平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 千葉胤政 ― 千葉貞胤 H442:千葉貞胤

 

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千葉貞胤 千葉一胤

 千葉氏の第11代当主。鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて貞胤と名乗る。正和元年(1312年)、家督を継いで当主となり、伊賀や下総の守護職を継承した。元弘元年/元徳3年(1331年)9月、後醍醐天皇挙兵討伐のため在京、元弘の乱では鎌倉幕府方の北条貞直軍に属して楠木正成が守る河内下赤坂城攻めで功を挙げたが、元弘3年/正慶2年(1333年)、新田義貞が幕府に反旗を翻して鎌倉を攻めると義貞に与し、武蔵国鶴見川付近で鎌倉街道下道を北上する北条貞将を破った。
 建武政権成立後は宮方につき、北朝方についた嫡流の従兄・胤貞と千葉氏の家督を争った。建武2年(1335年)には胤貞と相馬親胤に本拠の千葉荘を攻められるが、胤貞と親胤は同年11月、足利尊氏の檄文に拠って上洛したため、下総での戦いは貞胤有利となり胤貞の本拠千田荘の土橋城を攻め落とす。
 その後も貞胤は新田義貞の軍に属し足利軍と戦うが、建武3年(1336年)1月16日には丹波国志賀郷にて嫡男の一胤を足利軍の細川定禅に討ち取られる。さらに、義貞軍は一時は足利軍を九州に追いやるものの、再起を果たし反撃した足利軍に攻め込まれ貞胤も恒良親王を擁しての北国落ちに従う。
 そして、延元元年/建武3年(1336年)10月に吹雪の越前国木芽峠で義貞軍とはぐれて道に迷い、やむなく足利方(斯波高経)に降伏した。だが、その直後11月19日に従兄の胤貞が急死したため、貞胤は北朝方に寝返って下総守護を安堵された。その後は北朝方につき京と下総を往復するが、上洛していた正平3年/貞和4年(1348年)8月には、四條畷で楠木正成,楠木正行と戦い戦功を挙げた。
 正平6年/観応2年(1351年)1月1日、61歳で京にて死去。

 千葉氏の第12代当主。曽祖父・頼胤の没後、曽祖父に代わって大伯父・宗胤が異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れた間に、祖父・胤宗が千葉氏の家督を横領し第10代当主となった。
 祖父胤宗没後、第11代当主となった父の貞胤は、折りしも勃発し南北朝の戦いに際し北朝方についた大伯父・宗胤の嫡男胤貞と千葉氏の家督を賭けて争うが、南朝方の新田義貞の軍に属した一胤は、建武3年(1336年)1月16日に丹波国志賀郷にて足利尊氏軍の細川定禅に討ち取られた。

千葉氏胤 千葉満胤

 千葉氏の第13代当主。延元2年/建武4年(1337年)、第11代当主・千葉貞胤の次男として京都で生まれる。正平6年/観応2年(1351年)、父・貞胤が死去。兄の一胤は正式な家督相続前に戦死していたため、氏胤が跡を継ぐこととなり、上総・下総・伊賀3カ国の守護職を継承した。同年、足利尊氏に与して足利直義軍と戦い、上杉憲顕を破るという大功を挙げた。翌年にも南朝勢力である新田義宗と戦ってこれを破るなど、武功を多く挙げている。
 しかし正平20年/貞治4年(1365年)、京都にて病となり、帰国途中の美濃において重態に陥って、同年9月13日に29歳で死去した。死後、家督は子の満胤が継いだ。また、一子・聖聡は浄土宗の僧となり、増上寺を創建したことで知られる。なお、『千学集抄』によれば、室町時代後期の下総千葉氏の当主・千葉輔胤は馬場重胤の孫とされている。歌人としても優れ、『新千載和歌集』では多くの歌が残されている。 

 正平20年/貞治4年(1365年)9月、父の死によりわずか6歳で家督を継いだ。弘和元年/永徳元年(1381年)、小山義政の乱に際しては、鎌倉公方の足利氏満の命により、下野の小山義政を攻撃した。
 応永23年(1416年)8月、上杉禅秀の乱に際しては、子の兼胤・康胤らとともに上杉氏憲(禅秀)に与して鎌倉公方・足利持氏追放に加担した。ところが、これに怒った京都の将軍・足利義持の命を受けた今川範政,上杉房方らを中心とする幕府の軍勢が鎌倉に攻めて来る。
 応永24年(1417年)1月まで満胤は禅秀と共に懸命に戦ったが、敗れて禅秀は自害し、満胤は降伏した。このとき、一命は助けられている。しかし隠居して政界から退くことを余儀なくされた。
 応永32年(1426年)6月8日、67歳で死去し、跡を子の千葉兼胤が継いだ。

聖聡 千葉兼胤
 はじめ千葉妙見寺(廃仏毀釈により千葉神社となる)で真言密教を学んだが、元中2年/至徳2年(1385年)浄土宗の聖冏に帰依し、その門下となった。聖冏が体系化した五重相伝の布教に努め、多くの弟子を養成した。明徳4年(1393年)、武蔵国豊嶋郡貝塚(現在の東京都千代田区)にあった光明寺と称する真言宗寺院を浄土宗に改宗して増上寺と改称し、関東における浄土宗の道場とした。千葉氏・佐竹氏の帰依を得、寺領の寄進もあり増上寺の基礎を築いた。永享11年(1419年)、甥の酉仰に増上寺を譲った。 

 父・満胤とともに鎌倉府に仕え、元服時に第3代鎌倉公方・足利満兼より偏諱(「兼」の字)を賜って兼胤と名乗る。満兼のもとで、鎌倉府の侍所の役人を務めた。
 応永16年(1409年)に満兼が死去した時、それに乗じて親戚関係にある新田貞方・貞邦父子による謀反が起きたが、これを事前に鎮圧するという武功を挙げた。同年に第4代鎌倉公方に就任した満兼の嫡男・足利持氏に引き続き仕えることとなる。
 応永23年(1416年)、舅の元関東管領・上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こすと(上杉禅秀の乱)、これに与して父と共に主君・持氏の追放に一役を買った。しかし翌年、幕府軍の反攻を受けて禅秀が自害すると、父と共に幕府軍に降伏した。応永33年(1426年)、父の死により家督を継いだといわれているが、降伏後に父は処罰として隠居させられているに等しい状況のため、恐らくはこの前後に継いだと思われる。
 永享2年(1430年)6月17日、39歳で死去し、跡を長男の胤直が継いだ。 

千葉胤直 千葉胤将

 永享2年(1430年)、父の死により家督を継ぐ。鎌倉公方・足利持氏が京の室町幕府からの自立を画策すると、関東管領・上杉憲実と共に諌めた。
 永享10年(1438年)、持氏が憲実討伐を計画すると、鎌倉軍に属す(永享の乱)。しかし、武蔵高安寺にて幕府軍の出動を知り憲実との和議を結んで善後策を講じるように主張して、継戦を唱える簗田満助らと口論に及ぶ。持氏が満助の説を採ったために陣を退いて下総市河に移るが、その後、憲実に属して持氏を攻め、翌年上杉持朝と共に鎌倉永安寺に幽閉されていた持氏を討ち取った。直後の結城合戦でも幕府軍に属して結城城を攻めたが、嘉吉元年(1441年)に憲実と共に出家して家督を嫡男の胤将に譲った。
 その後、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方として復帰すると、胤直は胤将と共にこれを支える。享徳3年(1454年)に胤将が急死したために幼い次男の胤宣が千葉氏を継ぐことになり、胤直が後見を行うことになった。だが、成氏が再び上杉氏討伐を企てたために離反して上杉氏と共に成氏を攻撃する(享徳の乱)。
 ところが、かねてから親上杉派である胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍が胤直を攻撃。胤直・胤宣父子は千田庄多胡に逃れて防戦したが、同年8月12日に胤宣が自刃し、胤直も3日後の15日に自刃して果てた。また、援軍にかけつけた常陸国の大掾頼幹(妙充)もこの時に自害している。これにより、家督は康胤に奪われ、千葉氏宗家は滅亡した。この事件を契機として、千葉氏は次第に衰退してゆくのであった。
 9月7日に弟の胤賢も討たれるが、甥の実胤・自胤兄弟は康正2年(1456年)に武蔵へ落ち延び、幕府奉公衆・東常縁と扇谷上杉家家宰・太田道灌の支援を受けて康胤及びその子孫と対峙することになり、前者は武蔵千葉氏、後者は下総千葉氏として分裂していく。 

 嘉吉元年(1441年)、父・胤直に代わって当主となる。父が永享の乱,結城合戦といずれも関東管領上杉氏を支持したのに対して、胤将は大叔父の馬加康胤の進言を聞き入れて新しく鎌倉公方となった足利成氏に仕えた。宝徳2年(1450年)の江の島合戦では、成氏方として上杉氏の重臣である長尾景仲,太田資清と戦うが、4年後の享徳3年(1455年)に病に倒れて急死した。
 弟の胤宣が当主となるが、幼年のため、胤直が守護の職務を代行するが、直後に発生した享徳の乱では一転して室町幕府が出した成氏追討令を奉じて成氏派の康胤を退けた。このため、康胤と原胤房らが謀叛を起こして胤直・胤宣父子、叔父胤賢が討たれ、千葉氏宗家は滅亡に追い込まれていくのである。

 

千葉胤賢 千葉実胤

 享徳3年12月27日(1455年1月15日)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことから享徳の乱が起きると、兄・胤直と共に成氏討伐に参加したことから8代将軍足利義政から激賞された。だが、これに不満を抱く重臣の原胤房に千葉城を急襲され、胤賢は兄と甥の胤宣と共に千田荘(現在の多古町)に逃れた。
 そして胤直と胤賢は志摩城に、胤宣は多古城に立て籠り援軍を待ったが、康正元年(1455年)8月12日、原胤房に加担した叔父・馬加康胤の攻撃に耐え切れず多古城は陥落、胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自殺、胤房に攻められていた志摩城の胤直も8月15日、東禅寺に走り自殺した。胤賢は2人の息子実胤・自胤を連れて城を脱出、南の小堤城に入ったが9月7日に小堤城も陥落、胤賢も自殺した。2人の息子は八幡荘に逃れた。
 その後、実胤と自胤は市河城に入り、市河城へは将軍・義政によって派遣された東常縁も合流したが、古河公方・足利成氏の派遣した簗田持助らに敗れ、康正2年(1456年)1月19日に市河城も陥落し、さらに武蔵まで落ちのびることとなった。以後2人は扇谷上杉家の保護を受けて馬加康胤,原胤房らに対抗していった。

 

 

 康正元年(1455年)、上杉氏と古河公方足利成氏が対立して享徳の乱が発生、千葉氏は上杉氏に与したが、成氏派の重臣・原胤房と同族の馬加康胤に千葉城を急襲され、千田荘に逃れ援軍を待った。伯父の千葉胤直と従兄の胤宣父子は原胤房らに多古城と志摩城を攻められ落城、自刃した。しかし実胤と弟の自胤は父胤賢に連れられ志摩城を脱出、父も9月7日に小堤城で自刃して果てたが、実胤らは八幡荘市河城へ逃れた。 室町幕府8代将軍・足利義政が派遣した同族の奉公衆・東常縁の支援はあったが、成氏の派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年)1月19日に市河城も陥落、実胤らは武蔵へ、常縁は東庄の近い下総匝瑳郡へと逃れた。
 その後、体制を立て直した常縁は、2月7日に老尾神社で戦勝祈願をした後に馬加城を攻め落とし、6月12日に馬加康胤の子・胤持を、11月1日には上総八幡の村田川にまで逃れた康胤を討ち取り、11月24日に原胤房も追放、馬加氏を滅ぼした。さらに康正3年(1457年)4月には実胤らの外戚である扇谷上杉家の家宰・太田道灌が江戸城を築城する等古河公方側に圧力をかけ続けた。しかし、分家の印東庄岩橋村の領主・岩橋輔胤らは本佐倉城を築城するなどし反抗し続けた。
 そのため、武蔵へ逃れた実胤らの下総への帰還は叶わず、実胤は寛正3年(1462年)に隠遁したと伝えられる。一説によれば病弱であったとも言われているが、近年では堀越公方・足利政知の側近・渋川義鏡による讒言による失脚とする説もある(三浦時高,大森氏頼・実頼父子も義鏡に讒言されたとも)。

千葉自胤 馬加康胤

 享徳の乱で古河公方・足利成氏に与した重臣・原胤房と同族の馬加康胤に伯父の胤直,従兄の胤宣,父の胤賢ら一族を殺され、兄の実胤と共に下総八幡荘市河城へと逃れた。
 室町幕府8代将軍・足利義政が派遣した同族の奉公衆・東常縁の支援を得たが、成氏が派遣した簗田持助に敗れ、康正2年(1456年)1月19日に市河城も陥落、武蔵へと逃れた。同年、常縁が馬加康胤・胤持父子を討ち取り、原胤房も逃亡した。
 一方、兄・実胤は石浜城主、自胤は赤塚城主となり、康正3年(1457年)4月には外戚である扇谷上杉家の家宰・太田道灌が江戸城を築城するなど古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。
 その後、兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総において分家の印東庄岩橋村の領主・岩橋輔胤らが本佐倉城を築城するなど反抗を続け、その子・孝胤は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。東常縁も文明元年(1469年)4月に応仁の乱で斎藤妙椿に美濃の所領を横領されたため、息子の縁数を下総に残して帰京、軍事力も低下した。
 文明10年(1478年)1月、山内上杉家・扇谷上杉家と成氏が和解したが、長尾景春と組んだ孝胤は和睦に反対、成氏の合意もあり12月に太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には境根原合戦に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した臼井城を文明11年(1479年)7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。だが、この20年の間に輔胤,孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定されることとなった。自胤の子孫は武蔵に定着、小規模な勢力しか持たない国人に転落していった。 

享徳の乱に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主となる。下総千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから「馬加」と称した。また、『千学集抜粋』によれば、常陸国の大掾満幹の養子になったという。
享徳の乱において、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立する。その結果、京都の室町幕府から支持された上杉氏の追討を受けた成氏は鎌倉を追われて下総古河城に入り、古河公方と称した。そのため、下総守護であった千葉氏の元には、幕府と成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。甥の千葉氏当主胤直は幕府の依頼を受けて成氏討伐に乗り出すが、康胤は成氏支援を主張して対立する。これに筆頭重臣の地位を巡る原氏と円城寺氏の対立が絡んで家中は2分される事になった。
享徳4年(1455年)、原胤房は千葉胤直・胤宣父子を千葉城(亥鼻城、現在の千葉県千葉市中央区亥鼻)に攻め、千田庄(現在の千葉県香取郡多古町付近)へ追いやった。その後、出家していた康胤もこれに合流し、千田庄の多古城・島城にたてこもる胤直父子や円城寺尚任、援軍にかけつけた大掾頼幹(妙充、満幹の次男又は甥)を攻め滅ぼした。
これに対して、室町幕府の将軍足利義政は、この乱を治めるため歌人で千葉氏の一族でもある美濃郡上郡篠脇城主東常縁を派遣した。常縁は康胤の本拠たる馬加へ攻め入り、康胤は小弓、胤房は千葉へそれぞれ逃れた。康胤の最期については、上総八幡(現在の千葉県市原市八幡町)の村田川で常縁に討たれたとされるが不詳である。

 

千葉軸胤 千葉胤持

 『千葉大系図』によれば、第19代当主・千葉康胤(馬加康胤)の庶子で、初めは所領のあった印旛郡印東庄岩橋村より、「岩橋」氏を名乗ったとされる。ところが、『千学集抄』によれば、千葉氏の庶流である馬場胤依の子で、第13代当主千葉氏胤の曾孫にあたるとされている。馬場氏は氏胤の子・馬場重胤に始まる印旛郡馬場村を拠点とした一族で、輔胤の所領である岩橋も馬場氏の拠点の1つであったという。
 輔胤の時代の千葉氏周辺の状況について詳細な史料が存在しないため、輔胤の実像については様々な説がある。
 父の康胤は、享徳の乱で関東が混乱する中、1455年(享徳4年)、当時の千葉氏の正統である千葉胤直父子を殺害し、自ら千葉氏当主を僭称したが、幕府に追討される立場となる。1457年(長禄元)年、父とする康胤と兄弟とする千葉胤持(第20代当主)が戦死したため、輔胤がその後を継いで当主となる。
 一方、馬場胤依の子とする説を取った場合には、胤持の戦死後あるいはその4か月後の康胤の戦死によって康胤の系統が絶えた後に後継に迎えられたことになる。
 ところが同年、東常縁の攻撃を受けて居城(千葉城)を追われて佐倉に逃れ、そこを拠点とした。
 1471(文明3)、上杉顕定に追われた古河公方足利成氏を庇護し、翌年には成氏を古河に帰還させた。1478(文明10)年、長尾景春の乱が勃発すると、子の千葉孝胤を派遣して、上杉氏に反抗する景春を助けた。1492(明応元)に死去し、跡を子の孝胤が継いだ。子の孝胤の代に重臣団の後押しを受けて千葉氏当主を自称して以降、輔胤の系統が下総千葉氏の当主となるが、輔胤自身は岩橋姓のままであった。 

 享徳3年12月27日(1455年1月15日)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことから享徳の乱が始まり、これに乗じた千葉氏の重臣でもある原胤房は千葉城を急襲、千田庄に逃れたまだ幼い当主千葉胤宣を、康正元年8月12日(1455年9月23日)に原胤房に加担した胤持の父・康胤が討って千葉氏宗家を滅ぼした。しかしこの時の胤持の行動については定かではない。
 そして、原胤房は将軍足利義政が派遣した東常縁に追われ同年11月24日に逐電し、その後、東常縁の入った市河城は、康正2年(1456年)正月、19日古河公方足利成氏の派遣した簗田持助に落とされたが、東庄の近い下総匝瑳郡へ逃れ体制を立て直した東常縁に馬加城を攻め落され、胤持は6月12日に討たれてその首は京に送られたという。 

千葉孝胤 千葉勝胤

 享徳の乱後、千葉氏嫡流の千葉実胤には下総を掌握するだけの力が無く、印東庄岩橋村付近を領有した岩橋氏(輔胤は馬加康胤の庶子を自称)が千葉氏当主を自称した。孝胤は文明3年(1471年)頃に父・輔胤が出家したため家督を継く(この時に初めて千葉氏当主を自称したともされる)。同年3月、孝胤らの古河公方側は堀越公方足利政知を討つべく、伊豆国三島へ兵を進めた。当初、政知の元にはわずかな手勢しかなかったが、山内上杉家の軍と合流したことで勢いを盛り返し、退却した孝胤らの軍勢は散々に叩かれ壊滅状態となった。さらに、4月には山内上杉家の家宰の長尾景信が下野国足利庄を攻略、6月24日に古河城が陥落した。このため成氏は行き場を失い孝胤の領内に留まることとなった。
 文明4年(1472年)2月に孝胤,結城氏広,那須資実らの援助を受けて古河城を奪還し成氏は古河に戻った。そしてその後、文明8年(1476年)には山内上杉家の家宰を叔父の長尾忠景に継承させたことに怒り、上杉顕定に背いて武州鉢形城に奔った長尾景信の嫡男・長尾景春が成氏側に付いたこともあり、抗争は次第に全面対決の様相を見せ始めた(長尾景春の乱)。
 これに危惧した成氏と山内上杉家および扇谷上杉家の和議が進められた。しかし和議が整うと孝胤は千葉氏当主を自称できなくなり、景春と共に和議に反対し、名目上は成氏を主君としながらも古河城への帰城は阻止する方針を固めた。
 そして、室町幕府と古河公方,山内上杉家,扇谷上杉家の和議が整い、造反勢力は景春と孝胤らのみとなり、幕府が千葉氏当主と認めた千葉自胤(実胤の弟)の、太田道灌の支援を背景にした追討を受けることとなった。文明10年(1478年)12月10日には境根原合戦で大敗、軍勢をまとめて退却し臼井城に籠城したが、文明11年(1479年)7月15日に臼井城は落城し、下総・上総の大半は自胤に制圧された。
 その後、文明14年(1482年)の室町幕府と成氏の和議、その4年後に太田道灌が暗殺されると、自胤は後ろ盾を失って下総における支配を失ったまま明応3年(1493年)の死去に至ったと推定される。結果的には、古河公方を奉じる立場を保持した孝胤の下総千葉領支配が確立したと見るのが通説である。
 孝胤は本佐倉城を築城して下総支配の根拠とした。延徳4年(1492年)2月15日、父が亡くなったため出家、跡を子の勝胤が継いだ。ただし、実権は依然として孝胤が握っていたとされている。文亀から永正年間にかけて、古河公方足利政氏が千葉氏を攻撃したが、勝胤とともに本佐倉城をよく守って和議に持ち込んだ(篠塚陣)。永正2年8月19日(1505年9月26日)、孫の昌胤の元服前に亡くなったとされるが、それから16年後の永正18年8月19日(1521年9月19日)に没したともされ、没年は定かではない。
 篠塚陣での戦いの和議の席において、古河公方の使者が千葉氏の実権を握っていた孝胤に対して、勝胤に古河公方から一字拝領を受けることを勧めたが、千葉氏の当主は代々千葉妙見宮で元服して籤で一字を定めるので不要と答えた。これは、当主の権威を一族の精神的な支えであった妙見信仰に求めるとともに、下総国主として地元に根づいた下総千葉氏の姿を示した逸話と言える。

 延徳4年(1492年)2月15日、父・孝胤が出家したため家督を継ぐ。孝胤が古河公方の支援の下で千葉氏当主を名乗ったため、勝胤も千葉氏当主とされている(後期千葉氏)。
 詳細は不明であるが、古河公方足利政氏・高基親子と千葉孝胤・勝胤親子が不和となり、文亀2年(1502年)から永正元年(1504年)にかけて政氏親子が千葉氏討伐に向かい、本佐倉城に近い篠塚陣を拠点として千葉氏を攻めたが、両上杉氏の対立の激化によって和睦に至った。その直後に発生した立河原の戦いでは、勝胤は対立関係にある千葉守胤との対抗上、上杉顕定側について大敗している。永正2年(1505年)の子・昌胤の元服式は盛大に執り行われたことから、下総の諸豪族からは千葉氏当主としての支持を集めていたと思われる。永正6年(1509年)に隠居し、昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与した。
 永正14年(1517年)には僧籍にあった古河公方・足利政氏の次男・空然が還俗し、足利義明を名乗り挙兵、上総武田氏とともに千葉氏の家臣である原氏の小弓城を制圧し小弓公方を自称した。これに対して勝胤は、隣の臼井城の臼井氏が小弓公方側に付いたことを足利高基(義明の兄)に書状で知らせ、永正16年(1519年)に高基とともに義明が滞在していた上総椎津城を攻撃している。また、北条氏綱に小弓奪還のための援兵を求めたものの、当時、義明との政治的取引を期待していた氏綱に拒絶されたという(氏綱が千葉・小弓双方との等距離関係を改めて義明との対立関係を示すのは、大永年間以後とされている)。
 勝胤は和歌にも深い関心を持ち、彼とその家臣団は「佐倉歌壇」と称される和歌集団を形成していた。勝胤自身の和歌は残っていないが、彼と親交があった歌人・衲叟馴窓が永正11年(1514年)に編纂した『雲玉和歌抄(雲玉和歌集)』には、千葉氏関係者の和歌が多数採録されている。また、彼の時代に佐倉の町が整備されて多数の寺社が建立された。勝胤自身も海隣寺,勝胤寺(ともに千葉県佐倉市内)を建立した。
 享禄5年(1532年)5月21日に死去。一説には戦死したとも。 

千葉昌胤 千葉親胤

 永正2年(1505年)11月15日、10歳で千葉妙見宮で元服する。この年には祖父にあたる千葉孝胤が病死しており、自身が祖父・千葉輔胤の死の直後に孝胤から家督を譲られている父の勝胤が昌胤への将来の家督譲渡を意識して行わせたものであるともいわれている。永正6年(1509年)、父が隠居・出家したことに伴って家督を継承。ただし、実権は依然として勝胤が保有していた。
 この頃、千葉氏とは盟友関係にあった古河公方家では内紛が生じて、足利高基が父・政氏や弟・義明を追放して古河公方に就任した。昌胤は高基を支持した一方で、隣国上総を治める真里谷信清が義明を迎え入れて千葉家中にもこれに呼応する動きがあった。さらに義明軍は永正17年(1520年)に千葉氏の筆頭重臣・原氏の居城である小弓城を奪い、小弓公方を名乗った。このため、千葉氏ゆかりの亥鼻の地にまで小弓公方勢力が浸透することとなり、嫡男・利胤の元服も居城のある佐倉で行わざるを得なくなった。
 そこで昌胤は、当時急速に勢力を広げつつあった相模北条氏と連携して小弓公方派と対抗しようとした。また、千葉氏の庶流とはいえ本来は陪臣(原氏の家臣)にあたる高城胤吉を側近として用いて自分の妹婿としている。ただし、大永7年(1527年)に北条氏綱と足利義明が和睦すると、千葉氏・真里谷氏・里見氏もこれに加わり、この時期は義明傘下にあったと考えられている。
 享禄5年(天文元年・1532年)、父・勝胤の死によって家中の実権を完全に掌握すると、利胤の正室に北条氏綱の娘を迎えている。
 天文3年(1534年)11月に真里谷氏で内紛が起きたのに乗じて足利義明から離反したが、義明に攻められて翌年4月には降伏している。天文6年(1537年)には高城胤吉の居城小金城の落成を祝賀するとして自ら小金城を訪問して、茶会を名目に胤吉とともに国府台城を見回っている。
 ところが、足利義明と北条氏綱の関係が悪化すると、天文6年12月に古河公方・足利晴氏に内応して再び義明から離反する。天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明が北条氏討伐に向かうと、昌胤は古河公方足利晴氏の命を奉じる形で高城胤吉とともに第1次国府台合戦に参戦、義明の戦死を知ると兵を小弓城に進めて18年ぶりに同城を千葉氏の支配下に取り戻した。だが、この戦いによって北条氏の勢力は房総半島にも進出するようになり、千葉氏も次第にその影響を強く受けるようになる。
 天文15年(1546年)1月7日、死去。家督は利胤が継いだ。なお、子には利胤,胤富のほかに、臼井氏を継いだ臼井胤寿や原胤吉の養子となった原胤家や海上山城守の養子になった海上胤盛らがいる。

 天文16年(1547年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幼少のため、実権は親後北条氏の立場にあった家臣の原胤清・胤貞父子に掌握された。そして弘治元年(1555年)に元服を行うことになったが、同年10月に正木時茂が千葉に攻め込んだために慣例となっていた11月望日に開くことができず、同年12月23日に行われている。
 家臣の原胤清・胤貞父子の専横に不満を抱いた親胤は反後北条氏の立場に立ち、同じく反後北条氏の立場にあった古河公方の足利晴氏と手を結んだ。しかし、そのために北条氏康の侵攻を受けて捕らえられ、家督を叔父(あるいは兄)の海上胤富に譲渡させられた上で幽閉される。そして弘治3年(1557年)、暗殺されてしまった。享年17。
 暗殺犯は一般的には北条氏康と言われているが、近年では原胤貞あるいは同族で胤清と権勢を競っていた原親幹が氏康の内諾を得た上で暗殺したものと言われている。 

千葉胤富 千葉良胤

 父・昌胤は須賀山城を破却してその側に森山城を築き、胤富をその地に置いた。胤富が森山城にあったとき、自分の妻の菩提を弔うため、芳泰寺を須賀山城址下に建てた。
 初めは東総領主・千葉六党東氏一族の海上氏を継いだが、弘治3年(1557年)に弟(または甥)の親胤が家臣の手により殺害されたため、宗家の家督を継いだ。家督を継いでからは、栗飯原入道を森山城に置いた。また室町幕府の奉公衆にならい、千葉一族や重臣などからなる森山衆を新設したといわれる。
 永禄3年(1560年)、越後国の上杉謙信が古河公方の足利義氏を攻めたとき、北条氏康の要請を受けて援軍を送った。翌永禄4年(1561年)には里見氏の家臣・正木信茂の侵攻を受けて、臼井城や小弓城を奪われる。同年、上杉謙信が11万の大軍を率いて小田原城を攻めたときは、後北条氏に援軍を派遣した。しかしその後、和睦して、鶴岡八幡宮で行われた謙信の関東管領就任式に参列。小山高朝と諸将の首位の座を争い、謙信の仲裁によって胤富が首座となった。
 永禄5年(1562年)、後北条氏の支援を受けて正木氏に奪われた臼井城や小弓城を奪還する。臼井城合戦では謙信を撃退。その後は里見氏との交戦が続き、元亀2年(1571年)には小弓城で里見義弘と戦っている。天正7年(1579年)に53歳で死去した。
 胤富は後北条氏との関係を深めることで上杉謙信,結城氏や里見氏などの侵攻を撃退。武田信玄,謙信,義氏,佐竹,里見等と合戦してことごとく勝利を収め、千葉宗家の勢力を保った。

 彼の存在は一部の系図類が伝えるのみで『千葉大系図』など千葉氏の主要史料などに記されておらず、また発給文書も伝わっていない。
 また、彼が当主であった天正元年(1573年)より同3年(1575年)には既に邦胤が当主であったことが確認されており、戦国時代初期に武蔵国に実在した同姓同名の千葉良胤(武蔵千葉氏の千葉自胤の別名とも自胤の子である千葉盛胤の子とも言われる)を元にした架空の人物であると説もある。
 ただし、江戸時代中期以後に千葉氏嫡流を名乗って家名再興に動いた人々が通説で末期の宗家の当主とされている千葉邦胤・重胤父子の末裔ではなく良胤の末裔と名乗っていることは留意すべき点である。
 実在説を唱える史料によれば、親北条氏を唱える父・胤富と違って北条氏との距離を置いて、台頭してきた織田信長とも通じたためにこれに危機感を抱いた原胤栄(実際には隠居である胤富の命か)によって下総国公津城に幽閉され、後に脱出して奥州に逃れたとされている。
 だが、現存の発給文書を追うと、千葉胤富から邦胤への当主交代が行われたのは元亀年間と考えられている。折りしもこの元亀年間には甲相駿三国同盟が崩壊して仇敵同士であった北条氏康と上杉謙信が武田信玄に対抗するために一時的に同盟(越相同盟)を締結した時期にあたる。この時、北条・上杉両氏が互いの思惑から関東地方の勢力圏を勝手に分割したために親北条方の千葉氏は勿論、親上杉方として千葉氏と戦ってきた里見氏や佐竹氏などにも動揺が広がった時期にあたる。つまり、千葉氏を巡る対外関係は混乱状態にあった。この時期に千葉氏の嫡男あるいは当主であった良胤が北条氏の姿勢に不信感を抱き、従来北条氏一辺倒であった千葉氏の政策の見直しを行おうとし、これに反対した胤富や重臣達がこれを廃して、代わりに邦胤を擁立した可能性については否定できない。
 天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏に与して千葉氏が改易されると、良胤は下総に帰還して同国で死去したと言われている。

千葉邦胤 千葉定重

 兄で先代当主の千葉良胤が反後北条氏の姿勢を見せたため、家臣の手によって追放されたため家督を継いだ。1571年(元亀2年)11月望日に里見義弘の圧迫を避けるために佐倉妙見宮において元服が行われた。
 1582年(天正10年)に織田信長の重臣・滝川一益が関東に進出して邦胤にも信長への使者の派遣を促す使者が送られた際には拒絶している。北条氏と婚姻を結ぶと、北条氏の求めに応じて幾度も出陣し、隣国はその武勇を畏れ、千葉家の一族・家臣はその恵みを慕ったという。
 1585年(天正13年)新年の祝賀の席にて、近習の桑田(鍬田とも)万五郎の放屁を叱責したところ、恨みを持たれ、5月1日夜、就寝中に短刀で刺され、6日後に死亡した。享年29。嫡男には千葉重胤がいたが、幼少であることを理由に北条氏の干渉を受けて北条氏政の実子(氏照の養子)である千葉直重が継いだ。

 千葉氏の第33代当主。千葉氏の伝承では、重胤が寛永10年(1633年)に没した後にその弟である俊胤が当主となったが、6年後に浅草鳥越神社の神主であった俊胤が没すると、定胤が相続して33代目の当主となり千葉介を自称したという。
 定胤は浪人として下総国香取郡の五郷内に住み、帰農した旧臣の世話になっていたと伝えられている。五郷内の隣にある久保に現存する久保神社所蔵の千葉親胤の画像は定胤によるものと伝えられ、現在は香取市の指定文化財となっている。
 慶安元年(1648年)11月、定胤は千葉氏の再興を決意して旧臣に官途状を発給し、また香取神宮に家名再興を祈願した文書が残っている。だが、それからわずか2か月後に病のために33歳で急死した。嫡男の七之助は定胤に先立って没していたため、千葉邦胤系の千葉宗家は断絶した。
 その後、千葉氏の旧臣は邦胤の兄とされる千葉良胤の子孫とされる人物を当主に迎え、家名再興運動を継続していくことになる。 

千葉直重

 初めは叔父・氏照(大石源三)の養子になったが、千葉邦胤の死後、氏政の命によって下総千葉氏の家督を継ぐ。小田原征伐では小田原城に籠城した。その後、豊臣秀吉の命で兄・氏直が高野山に蟄居したときは同行している。蟄居が解かれると蜂須賀家政に仕え、知行500石を与えられている。
 なお、継室との間に生まれた実子の十三郎は早世したため、蜂須賀氏家臣・益田豊正の3男を婿養子に迎え、一字を与えて大石重昌と称させた上で家督を継承させた。子孫は代々蜂須賀家に仕え、3代後の直武から実家(後北条氏)の祖先とされる伊勢氏を称している。