<桓武平氏>高望王系

H440:千葉胤政  桓武天皇 ― 平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 千葉胤政 ― 千葉宗胤 H442:千葉宗胤

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千葉宗胤 千葉胤貞

 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて宗胤と名乗る。元寇による負傷がもとで没した父・頼胤に代って宗胤は異国警固番役として九州に赴き大隅国守護職を与えられた。永仁2年(1294年)1月16日、30歳の若さで死去。
 千葉介家の本領千葉荘は、宗胤の嫡男・胤貞が遠方の地にあったこと、また、若年でもあったことから、宗胤の留守を預かっていた弟・胤宗が実質的に領有する処となる。
 宗胤は、父・頼胤から千葉介家の本領千葉荘を継承した他、母を介して祖父・千田泰胤の領した千田荘や八幡荘・臼井荘および肥前国小城郡を継承しており、宗胤の没後、嫡男の千葉胤貞は千田荘を本拠として胤宗の子・貞胤と千葉氏宗家の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため宗家復帰はならなかった。千葉氏宗家の家督は、胤宗の系統が継承することとなる。
 その後、貞胤の子孫は千田氏として千田荘を領し、肥前国小城郡にあった次男・胤泰の子孫は九州千葉氏(肥前千葉氏)として存続した。
 娘は下総国猿島郡石井郷の石井忠成に嫁いだと伝わり、宗胤の玄孫・忠国は肥前石井氏の祖となった。

 

 正応元年(1288年)、父が異国警固番役として赴任していた肥前国小城郡で生まれたとされ、その後下総国千田荘を本拠とし、肥前国小城郡のほかに八幡荘や臼井荘も併せて領した。鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて胤貞と名乗る。
 父が下総不在の間に、叔父の胤宗に千葉氏の家督を横領され、父の没後、折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方につき、建武2年(1335年)には同族の相馬親胤らとともに叔父・胤宗の子・貞胤の本拠千葉荘を攻めた。
 だが、同年11月、胤貞と親胤は足利尊氏の檄文に拠って上洛、その間に貞胤方は胤貞の本拠千田荘を蹂躙し、この騒乱は下総国中に波及したという。そして、南朝方の新田義貞の軍に属した貞胤は、延元元年/建武3年(1336年)10月に越前国木芽峠で足利尊氏軍の斯波高経に降伏した。だが胤貞は下総への帰途同年11月19日に三河国で病没する。降伏した貞胤は北朝方に寝返って、貞胤の子孫が千葉氏宗家を称し存続した。そのため肥前国小城郡に在った弟の胤泰は九州千葉氏として活路を見出したが、宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった。
 胤貞は日蓮宗に帰依しており、領有していた千田荘には浄妙寺や妙光寺あるいは日本寺、八幡荘には法華経寺などの日蓮宗の古刹が多い。

千葉高胤 千葉胤平

 史料が少ないため、詳細については分かっていない人物であるが、関連史料から実在の人物であったことは確かである。
 諱の「高」の字は、鎌倉幕府第14代執権・北条高時より偏諱を受けて名乗ったものとみられる。少なくとも高時が執権職にあった正和5年(1316年)から正中3年/嘉暦元年(1326年)の間は生きていたと考えられる。『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』に誤りがない限り、地頭として小城郡を領していたことは確かであるが、建武元年12月1日(1334年12月27日)に、千葉胤平が父・胤貞より肥前国小城郡と千田荘および八幡荘の総領職を継いでいることが史料で確認できるため、この年までには亡くなっており、死後は一旦父が再度家督および小城郡を継承してから、そのまま弟の胤平へ継承されていったものとみられる。
 尚、息子に胤親,胤雅がいたとされ、胤親が原氏、胤雅が高城氏の祖になったとされている。

 曽祖父・頼胤の没後、曽祖父に代わって祖父・宗胤が異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れた間に大叔父胤宗に千葉氏の家督を横領されてしまった。
 そのため父の胤貞は、大叔父の子・貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、そのような中の建武元年12月1日(1334年12月27日)、父より肥前国小城郡と千田荘および八幡荘の総領職を継ぐ。だが、その後胤平についての記録が残っておらず、大叔父の子・貞胤との争いには父の胤貞が前面に出ていることから、総領職を継いでまもなく没したものと推測されている。
 下総国の所領はさらに弟の胤継に譲られ、肥前国小城郡については父の養子であった叔父の胤泰の知行とし、分割して継承されることとなった。

 

千葉胤泰 日祐

 九州千葉氏(肥前千葉氏)の祖。祖父・頼胤に代って父・宗胤が肥前国に赴いた間に叔父の胤宗が千葉介家の本領千葉荘を領有し、従兄弟の貞胤(胤宗の子)が千葉氏の家督を継いだ。兄の胤貞は、下総国千田荘を本拠として貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し、宗家復帰はならなかった。このため、肥前国に在った胤泰が九州千葉氏を興すことになった。

 

 千葉氏一族の子と伝えられ、千葉胤貞の猶子となる。胤貞の庇護下にあった日高に師事し、正和3年(1314年)、中山本妙寺兼若宮法花寺(現・法華経寺)3世貫首となった。千葉胤貞流の千田氏,九州千葉氏の外護を受けて、房総を中心として勧進・結縁活動にあたり、日本寺をはじめ、千田荘・八幡荘・臼井荘の各地に寺院を建立する。
 また、日常(法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した日蓮真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集に努めた。また、毎年のように久遠寺の日蓮墓所に参詣を行い、天皇及び室町幕府将軍への奏聞のためにたびたび上洛を行う。
 更に千葉胤貞が肥前国小城郡に所領を持つと、現地に赴いて光勝寺の開山となった。更に法華経の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。墓所は法華経寺。 

千葉興常 千葉胤頼

 生誕年は不詳。早くに父・胤盛と死別したことから周防の大内氏のもとで育てられ、元服時に烏帽子親となった大内義興から偏諱の授与を受けて初名の胤棟から興常に改名した。
 文明18年(1486年)に胤朝が暗殺されると、これに少弐政資が介入し、政資の弟が千葉胤資として新当主に擁立される。これをきっかけに九州千葉氏は分裂し、大内氏の後援を受ける興常が祇園城(千葉城)を本拠とした祇園千葉氏(東千葉氏)の初代となる。明応6年(1497年)に大内義興が少弐政資を攻め滅ぼした後には、大内氏の肥前守護代に任命され威勢を振るった。
 命日は天文元年(1532年)6月5日、または天文9年(1540年)6月4日とされる。
 家督を継いだ次男の丹波守喜胤も、天文11年(1542年)3月29日に病への悩みが原因で34歳で自殺し、その跡は婿養子となった千葉胤頼(少弐政資の孫)が継いだ。

 

 九州千葉氏は、室町時代において肥前国の最有力な豪族であり、龍造寺氏などもその傘下にあったが、室町時代後期に一族が西千葉氏(晴気千葉氏)と東千葉氏(祇園千葉氏)に分裂、更に大内氏に筑前国を追われた少弐氏が肥前に拠点を移すと、分裂して統一した対応の取れなくなった九州千葉氏は少弐氏の勢いに押され、ついにはその家臣同然と化してしまっていた。 東千葉氏の家督を継いだ千葉喜胤が家督相続後まもない天文11年(1542年)に自殺したのに伴い、胤頼が東千葉氏を継ぐこととなった。
 胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣・龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。一方、分裂以来、対立関係であった西千葉氏の千葉胤連は龍造寺家の重臣の子であった鍋島彦法師丸(鍋島直茂)を養子に迎えて対抗する(のちに養子縁組は解消されている)。
 永禄2年(1559年)、龍造寺隆信,千葉胤連に攻められ、肥前勢福寺城で兄・冬尚と共に自害した。子の胤誠は逃亡し神代勝利を頼った。