<桓武平氏>高望王系

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白井胤時 鏑木胤定

 白井氏初代。胤時は、千葉介頼胤(亀若丸)の幼少時代、頼胤の大叔父として、一族の長老として宗家代の立場にあった人物と思われる。千葉介胤綱,千葉介時胤がいずれも若くして亡くなり、「千葉八郎胤時」が幼少の惣領に代わって幕府に出仕し、放生会の供奉など千葉介の役を果たしていた。次第に頼胤の叔父にあたる千葉二郎泰胤が出仕するようになり、胤時は引退をしたようである。
 嘉禎3(1237)年4月19日、鎌倉の大倉新御堂上棟式に際し、将軍・頼経は夜まで続けられた足利義氏邸での酒宴から御所へ帰還するにあたり、隨兵十騎の中に「千葉八郎」の名が見える。嘉禎4(1238)年6月5日、将軍家春日社御参に隨兵一番として、三浦光村,梶原景俊と並んで胤時の名が見える。その2年後の仁治元(1240)年8月2日、将軍・頼継の二所詣の先陣隨兵十二騎の一騎にも千葉八郎が見える。
 寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突如御出する際に、供奉する御家人がこれを知らずに供奉に遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていたのを、この日、月の上旬・中旬・下旬で当番制とした。その中旬の担当に千葉八郎」が見える。
 宝治元(1247)年5月14日、前日に亡くなった将軍・頼嗣御台所(北条時氏娘)の葬送の儀が執り行われ、前執権・北条経時の佐々目谷墳丘墓の傍らに埋葬された。この葬儀に列した人物として千葉八郎が見える。
 しかし、宝治元(1247)年の宝治合戦で上総権介秀胤に連座したとの廉で白井庄を没収され、千葉宗家(千葉介頼胤か?)に預けられたという。胤時が宗家代を務めたほどの重鎮であったことから、子孫の白井氏(鏑木氏)は千葉宗家の直臣としての道を歩むことになったと思われる。 

 白井氏2代。父・胤時が宝治合戦に連座して、白井庄を失ったが、千葉宗家の庇護のもとで白井庄鏑木村を領し、「鏑木氏」を称するようになる。鏑木氏は千葉惣領家の庇護を受けながらも、かつては惣領代として幕府に出仕していた家柄が認められたか、白井氏=鏑木氏は千葉宗家の有力な直臣となっていく。一説には千葉惣領家臣第二位の地位ともされる。
 胤定はその後、下総国の東、香取郡に広がっていた内海・椿ノ海のほとりに所領を与えられ移り住み、その地を鏑木郷として領した。
 胤定は大須賀胤信の曾孫にあたる荒見弥四郎泰朝とともに浄土宗の有力壇越として知られ、浄土宗三祖・良忠を庇護した。胤定は建長5(1253)年頃、下総国を布教中の良忠に帰依し、鏑木郷に光明寺を建立。みずからは在阿弥陀仏と号した。そして建長6(1254)年8月、良忠は『選択伝弘決疑鈔』五巻を著し、胤定へ与えている。さらに正嘉元(1257)年2月には『決答授手印疑問鈔』二巻を著して胤定に与えた。
 文永2(1265)年7月19日の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」であるが、この白井九郎は「白井九郎胤定」のことと考えられる。 

白井公永 白井胤治
 胤泰から5代の孫にあたる駿河守公永は、千葉宗家に白井胤時の代の遺領を返還されるよう願い出て許され、白井庄は公永に渡され、公永は白井氏に復したのであった。とはいえ、公永の嫡男十郎胤元は鏑木氏の家督を継ぎ、公永の甥・真壁幹成が白井氏を継承した。  

 戦国時代の武将で軍師。出家して浄三と号したために、白井入道浄三という名でも知られている。
 出自不明で、一説には利胤・親胤・胤富の千葉氏3代に仕えたとされる。別説では三好三人衆の三好長逸に軍師として雇われ、後に修行のため関東に下ったという。
 永禄8年(1565年)11月、上杉謙信は三国峠を越え関東で越冬。翌2月北条方の小田氏治の領する常陸小田城を陥落させ高城氏の領する下総小金城へ攻め入った後、3月上旬に1万5千の大軍で北条方の原胤貞が治める下総の臼井城を包囲した。謙信はここを拠点に里見氏と連携し、印旛沼や利根川水運を手に入れようと考えていた。
 臼井城にはわずか2千の兵しかいなかったという。原胤貞は旧主千葉氏,後北条氏に援軍を依頼したが、しかし千葉氏は臼井城ではなく本城である佐倉城を優先し、松田康郷ら250騎しか援軍を送らなかった。上杉兵の波状攻撃により3月20日には濠一重を残すばかりとなり、上杉家重臣・長尾景長は下野足利の千手院へ「落居程有るべからず候」と書簡している。
 謙信が臼井城を囲んだ際、白井浄三がたまたま在城していたことが情勢を変えた。大軍を前にして落城必至の情勢に、原胤貞より指揮を託された浄三は「このたび大敵発向すといえども、さらに恐れるべからず。敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の陣中に立つ軍気はみな律儀に王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」と兵を鼓舞し、兵の士気を高め好機を待った。 3月26日、謙信は総攻撃を命じた。対する浄三は、城門を全開にし城兵による総攻撃を命じた。まず原大蔵丞と高城胤辰の先陣が突入し、疲れが見えたところで二陣の平山・酒井が錐で穴を空けるがごとく道を造り、松田康郷と原の家老であった佐久間主水介率いる三陣が敵本営にあとわずかのところにまで迫った。特に三陣の活躍は凄まじく、松田は「赤鬼」の渾名に恥じぬ鬼神の働きであったと伝わる。これにより上杉軍は一旦撤退を余儀なくされる。
 翌日、謙信は敵が勢いに乗って攻め込んでくると考え本陣で待ち受けたが、一向に攻め込んでこない。業を煮やした謙信は逆に、先手を打つ出陣を命じた。先鋒の長尾当長は城の逆茂木を壊し濠を越え、大手門にまで迫ったが、これを見越していた浄三に城壁を崩され、兵士数百名を一瞬で下敷きにされてしまった。これに驚いた謙信は全軍を撤退させようとしたが、勝機と見た浄三は城兵に総攻撃を命じた。崩れる上杉の軍勢を北条長国や新発田治長が良くつなぎ止め撤退戦を行うが、しかし多数の戦死者が出た。後北条方の古河公方足利義氏は上杉の死傷者は5千人以上と語っている。謙信の恥となる大惨敗のためか『謙信公御年譜』(謙信の伝記)にこの城攻めは記録されていない。
 浄三のその後は不明である。軍記物には度々名が上がるが、史料としては確認されない。慶長16年(1611年)、徳川家康が豊臣秀頼との会見を望んだ際、淀殿は会見の正否を白井龍珀という軍師に占わせた。軍師は「否」との結果を出したが、家老の片桐且元が会見を行うべきとの結論に書き換えてしまった。秀頼と会見した家康は、りっぱな武将に成長した秀頼を恐れ豊臣をつぶすことを決意したという。浄三は後に豊臣家に仕えたという伝承があり、竜伯はその子孫の可能性がある。 

白井宗幹 鏑木胤義

 下総入道(白井胤治)にはそれまで子がなかったために、真壁胤吉の子・白井治部少輔宗幹を養子として迎えたが、永禄9(1566)年に実子の白井平蔵胤隆が生まれた。しかし、下総入道はあえて実子・胤隆を嫡子とはせず、宗幹に跡を継がせている。小田原の戦いでも、宗幹は白井氏の当主として、養父・下総入道の次男・白井胤邑を伴って小田原城に入城し、胤隆には千葉郷多部田城の守備を命じた。胤隆もその期待によく応え、籠城して徳川家康軍と戦った。
 宗幹は千葉介胤富の娘を正室とし、主君・千葉介邦胤とは義兄弟であった。宗幹は小田原城陥落後、浪人しているところを豊臣秀吉に見いだされ、その力量を見込まれて関白・豊臣秀次の家老に抜擢されている。秀次が切腹させられたのちも罪に問われることなく秀吉の直臣となり、文禄慶長の役では、肥前国名護屋城に供奉した。
 宗幹と千葉介胤富女の間には娘が2人生まれ、一人は義兄・千葉介邦胤の子・鏑木俊胤へ嫁ぎ、もうひとりは白井備後守胤幹,白井志摩守幹時と娘一人(千葉介邦胤妻)のあわせて3人の子が生まれた。胤幹は早世したため、次男・幹時が白井氏の遺跡を継ぐ。幹時の長女・春は徳川家康の侍女となり、幹時の死後は芳春院と号す。次女・良は豊臣秀吉の寵姫・淀君の侍女となっていた。

 天文22年(1553)、越後の長尾景虎が古河公方足利晴氏を支援して関東に軍を進めたとき、千葉介親胤は景虎軍を迎え撃たんとしたが、胤義は原,椎名,押田氏らとともに武蔵村岡河原に陣を布いたが、千葉勢は敗北。翌年、北条氏康は古河公方晴氏を攻めたが、胤義は千葉介親胤の陣代として北条軍に加勢して出陣している。 
鏑木胤定 鏑木胤家
 胤義の跡を継いだ胤定は、永禄元年(1558)、香取郡新里領主池内氏の楯城を攻撃し、池内氏を配下におさめた。同3年頃から、安房里見氏の重臣・正木氏が上総・下総への侵攻を繰り返すようになり、胤定は八日市場台において正木軍と戦ったが敗れ、正木勢は木内氏の米ノ井城、国分氏の矢作城を攻略した。この事態に対して、胤定は大須賀氏,木内氏,矢作氏らの諸将とともに米ノ井城に向かい、山田台において正木軍と合戦、正木軍を敗った。さらに永禄8年、原,園城寺,大須賀,木内氏らとともに海上郡飯岡において正木軍と戦い、ふたたび正木軍を敗っている。ところが、翌年、胤定は病死したようで、ふたたび胤義が家政を担った。 

 天正元年(1573)、胤家が祖父・胤義から家督を継いだ。胤家は千葉介胤富・邦胤・重胤の三代に仕えた。胤家の代になると織田信長による天下統一の動きが急となっていたが、天正10年、信長が本能寺の変で横死すると、さらに時代の動きは急となった。信長の事業は羽柴秀吉が継ぐかたちとなり、秀吉は信長にまさる勢いで天下統一を進めて行った。西日本を平定した秀吉は関東・奥州にその鉾先を向けてきた。そして、秀吉は小田原北条氏に上洛するように命じてきたのであった。これに対して、北条氏政は拒絶の姿勢を示したため、ついに天正18年(1590)、秀吉は小田原征伐の軍を起こしたのである。いわゆる小田原の役に際して千葉介重胤は小田原城に籠城し、鏑木胤家は嫡子・成胤とともに鏑木城を守った。
 秀吉軍の攻撃に小田原城はよく籠城戦を続けたが、7月、ついに降伏、開城ということになった。その結果、後北条氏に味方した諸将の居城は豊臣軍に接収され、鏑木胤家も鏑木城を開いて野に下ったのである。このとき、嫡子の成胤も父とともに陰棲の身となった。ここに、鎌倉時代以来、千葉氏の重臣として乱世を生き抜いてきた鏑木氏も武将としての歴史に幕を閉じた。

鏑木胤永 鏑木胤景

 延享4(1744)年9月に鏑木村に誕生した。彼は医学を修め、天明年間にはじめて佐倉藩主・堀田正順に藩医として召し出された。寛政2(1790)年、十人扶持を給され、享和3(1803)年2月には江戸藩邸詰となった。
 文化2(1805)年9月、十八人扶持を給されて国元佐倉詰となり、文化8(1811)年閏2月に亡くなった。号は瑞翁、鏑城。佐倉城下の久栄山妙隆寺に葬られた。 

 父の跡を継いだ鏑木胤景仙安は享和3(1803)年佐倉にて誕生。儒学を石橋竹州に、書を市川米庵に学び、天保7(1836)年10月7日、父が医学局都講になったのと同時に、医学局読頭に就任している。天保9(1838)年には藩命により、江戸に出て箕作阮甫について蘭学を学んだ。佐倉藩は蘭学による西洋医学の取り入れに積極的であり、仙安は藩医として修める義務があった。しかし、江戸での学問だけでは不十分であると、藩は長崎遊学を命じられた。そして約一年の勉学を終えて天保13(1842)年12月⑮日、佐倉に戻った。翌12月16日、医学局都講を仰せ付けられ、蘭学を学ぶ者は学校に出て仙安について学ぶ触れが出された。号は鰲山、昭海。