建武3年(1356)、行胤は葛西高清に突如、遠野城を攻撃される。迎え撃つ行胤の兵力は五百騎。このとき、妹婿の熊谷直光は一族郎党一千騎を引きつれて馬籠氏の援軍に向かった。しかし、葛西軍の猛攻の前に行胤をはじめ、弟の掃部丞胤久,右兵衛尉行範,子の帯刀行重,小五郎慶次が討死にした。しかし、遠野城は陥落しなかったため、葛西軍は矛先を熊谷一族へと向けた。 熊谷氏は本拠地である気仙郡赤岩城に籠って葛西軍を迎え撃った。激戦のなかに当主・直時以下一門がほぼ全滅したが、なお城は落ちず、葛西軍は退却していった。一方、馬籠氏も一族が壊滅してしまったため、行胤の子・胤宣は葛西氏に降伏した。これを契機にその後、約百年間近く、馬籠氏の消息は遥として伝わっていない。
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重胤のあとは弟の重長が馬籠氏の惣領になっており、おそらく重胤は罪を得て歌津村に所替えされたと思われる。ところが重胤は豪の者で、後日、歌津の隣国の元良大膳大夫と摩擦を生じ、天正14年(1586)4月には合戦に及び、元良方の大将・黒崎兵部を討ち取っている。 この争いは葛西支族元良氏の専横を制すべく、葛西宗家により意図された紛争のようで、馬籠氏が窮地に追い込まれると、葛西晴信みずから出陣、北から浜田安房を、南から赤井氏や福地氏に命じて挟撃させている。かくして、重胤は太守の信頼を取り戻したようだ。そして歌津馬籠氏は本家以上の実力を得、重胤の子・重如、さらに重俊と継承した。重俊は奥州仕置ののちに伊達氏に迎えられ、金山奉行として二百石を与えられて伊達家臣となり、子孫は伊達藩士として明治維新まで続いた。 一方、本貫地に残った嫡流馬籠氏の動向は不明だが、重長の子・直長は逸材で長崎城熊谷氏の養嗣子に迎えられ、大守晴信の特使として活躍したことが知られている。
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