<藤原氏>北家 秀郷流

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波多野義通 波多野義常

 東国に下向していた、まだ十代の年若い源義朝に近しく仕え、義通の妹は義朝の側室となって次男・朝長が産まれる。
 保元元年(1156年)の保元の乱で義朝に従った。保元3年(1158年)4月、義朝と不和となり京を去って所領の波多野郷に居住した。 この頃、義朝の3男で正室所生の頼朝が、兄である朝長の官位を越え、義朝の嫡男となっており、この嫡男の地位を廻る問題が不和の原因と考えられている。
 平治元年(1159年)12月の平治の乱でも義朝方として従軍している。この平治の乱で義朝は敗北し、東国へ落ち延びる道中で同行していた朝長は戦の傷が元で死亡している。なお、朝長の邸は波多野氏の所領松田郷内にあり、萱ぶきで従者たちがつめる「侍」は柱間25ほどの大きさで、壮大な広さの館を構えていた。

 

 相模波多野氏は波多野氏の一族で摂関家領相模国波多野荘を所領とする。波多野義通の子として誕生した。父・義通は保元の乱で源義朝に従い、義常の叔母が義朝の側室となって次男・朝長を産んだため、河内源氏との関係が深かったが、義通は保元3年(1158年)、義朝と不和となっている。義常は平治元年(1159年)の平治の乱後、京に出仕して右馬允の官職を得て、相模の有力者となる。
 治承4年(1180年)7月、義朝の遺児・源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、参向を求められるが、義常はそれを拒否して暴言を吐いたという。同年10月、南関東を制圧した頼朝から誅伐の討手が差し向けられると、討手の下河辺行平らが到着する前に本拠地の松田郷で自害した。
 義常の嫡男・有常は、義常の自害後に囚人となるが、文治4年(1188年)に許されて鎌倉幕府御家人となっている。

松田有常
 文治4(1188)年4月、鶴岡八幡宮で臨時祭が行われた際、源頼朝が流鏑馬に堪能な者を召したところ、この日選ばれた故波多野(松田)義常の嫡男である波多野有経(有常)が、素晴らしい技を披露した。感心した頼朝は、有経の亡き父・義常の所領であったうちの松田郷を与えることにした。