<藤原氏>北家 秀郷流

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松田元成 松田元藤

 松田元澄あるいは松田元隆の子、松田直頼の次男と諸説あり詳細は明らかでない。
 文明12年(1480年)、以前の富山城から金川城へと居城を移した。
 文明15年(1483年)、かねてより赤松氏と険悪であった山名氏と密かに結び、備前に山名氏の軍勢を引き入れ赤松氏へと反旗を翻す。これに対し備前守護・赤松政則は三石城の浦上則国に松田氏追討を命じた。これに対し元成は山名氏へ援軍を依頼し赤松方の小鴨大和守,浦上則国,浦上基景らが守る福岡城を攻める。
 京の浦上則宗は赤松政則に福岡城へ援軍を送るよう要請し、赤松政則は福岡城に浦上則景の兵を送り、さらにそれと同時に赤松政則も山名氏の領地である但馬へと出兵するが、政則の軍は山名勢に惨敗し逆にそれを追って山名勢が播磨へと押し寄せた。 この知らせを聞いた備前の赤松勢の士気の低下は大きく浦上則景は福岡城への援軍に駆けつけられず兵を引き返すことになり、また福岡城からも城から政則の元に重臣が逃げ出すなどの事態となった。その混乱に乗じて元成と山名勢は福岡城を攻め、50日の籠城戦の末に福岡城を攻め落とす(福岡合戦)。元成はその勢いに乗じて文明16年(1484年)2月、三石城へ攻めようとしたが、途中、吉井川の東の天王原において浦上則宗に攻撃され大敗し、磐梨郡弥上村山にて自害して果てた。
 不受不施派を熱心に信奉しており、領内の他宗派の教徒を半ば強引に改宗させるなど少々、過剰なまでに手厚く外護を加え後々この地域に不受不施派が根付く大きな要素となった。
 また、山名勢を引き入れたのは守護権力からの独立が目的だったのでは無いかとされている。

 

 1484年(文明16年)、父・元成の敗死により急遽家督を継ぐ。戦時中の総大将の死亡という本来ならば大きな混乱が起きかねない局面で家督を継いだ元藤であったが、これをよく取りまとめ、そのまま山名氏と連携して赤松氏との戦を継続した。
 その後、徐々に戦局は山名・松田連合軍に有利に傾き、1485年(文明17年)には浦上則宗の息子である浦上則景・則国兄弟を相次いで討ち取るなど大きな戦果を挙げる。しかし、その後は体勢を立て直した赤松勢が盛り返し、1488年(長享2年)には福岡城を浦上宗助に奪還され、1483年(文明15年)から6年続いた山名氏と赤松氏の抗争は実質的に両者痛み分けという形で一応の決着を見る。しかし、元藤ら松田氏はこの争乱において西備前の領地を守り抜いて支配権を確立し、元藤は元成以来の悲願であった守護権力からの独立を果たした。
 1491年(延徳3年)に起きた備中守護代・庄元資が守護の細川勝久に反乱した際には、元藤は庄氏に味方して勝久方の軍勢を打ち負かした。この反乱は翌1492年(明応元年)に勝久方の討伐軍によって一時は鎮圧されたが、元資は細川政元の支援を受けて再び備中に出陣して勢力を盛り返し、結局は和睦という形で決着したが、これにより備中での守護権力は大きく衰退した。
 その後も近接する浦上に対して、元藤は強硬な姿勢を崩さず度々戦となった。1497年(明応6年)、富山城攻めのために兵を起こした浦上宗助を逆に討つべく元藤は金川城から出撃し宗助を富山城の守備兵との挟撃によって敗走させ窮地に追いやるが、駆け付けた宇喜多能家によって崩され宗助を取り逃がす。
 1502年(文亀2年)の冬には浦上則宗が死亡して間もない浦上に対して、今度は元藤から浦上領内に侵攻し小競り合いをおこす。そして翌1503年(文亀3年)には雌雄を決するべく旭川の牧石の河原において浦上軍と激突。旭川を強引に渡河して来た浦上軍に対して元藤の軍はあらかじめ笠井山に陣取り山から攻め降りて浦上軍を旭川を背にさせる形で包囲して戦局を優位に進める。これを見た宇喜多能家が浦上の残りの軍勢を率いて更に渡河して来ると元藤自身も笠井山を降りて攻め入り大乱戦となる(旭川の戦い)。この乱戦の中で目覚ましい活躍を見せた宇喜多能家の捨て身の攻撃により松田勢は崩れ、元藤は領国へと兵を引き上げざるを得なくなる。しかし浦上軍にも追撃の余力は無く、この一戦の後も松田と浦上の勢力図に大きな変動は無いまま睨み合いが続いた。
 1509年(永正6年)に、京に赴いた元藤は三条西実隆より玉松・麗水の二書を贈られ、これ以降、居城である金川城は玉松城へと呼び名を改めたという。父の元成同様に不受不施派の熱心な信奉者であったと伝わる。 

松田元陸 松田元輝

 祖父の松田元成の戦死以降、赤松氏,浦上氏との対立が根深い松田氏であったが永正16年(1519年)、赤松義村と対立し三石城に籠もった浦上村宗と元陸は密かに同盟し、村宗と義村の対立騒動では常に村宗方に味方し、村宗の赤松家中の実権掌握の一助を担う。それにより元陸の権力も強まり、大永2年(1522年)、将軍・足利義晴により侍所所司代に命ぜられる。後に日蓮宗妙覚寺の別当も務めた。
 享禄4年(1531年)、将軍・足利義晴の命により天王寺合戦に参加、赤松政祐の裏切りで村宗や細川高国もろとも戦死した。

 松田氏は備前国西側に勢力を持ち、松田元成以来、浦上氏と幾多の戦いを続けてきたが、松田元陸の代からは和睦し友好な関係を築き、元輝も浦上国秀の仲介で浦上政宗と婚姻関係を結んでいる。
 天文20年(1551年)、出雲国の尼子晴久が備前国へ侵攻すると、政宗の弟・浦上宗景は安芸国の毛利元就と同盟を結び尼子氏との対決姿勢を示した。一方、元輝は尼子方に与し、浦上政宗と連携して備前国の覇権をめぐって争った。はじめ備前国での両者の力は拮抗していたが、尼子晴久が急死し勢いを失うと宗景が徐々にその勢力を強めていった。元輝も宗景方の宇喜多直家により、永禄4年(1561年)に家臣の龍ノ口城の穝所元常が計略によって討たれ、和田城の和田伊織も敗走させられたことで邑久郡・上道郡を抑えられ、苦境に追い込まれる。
 そして永禄5年(1562年)、元輝は宇喜多直家の持ちかけた和議の申し入れを受け、宗景方との間で和睦が成立。この時、浦上宗景から、宇喜多直家の長女を子の松田元賢に嫁がせ、松田氏の家臣である伊賀久隆に直家の妹を嫁がせることを提案されると、元輝もこれを承諾。宗景家臣の中で台頭する宇喜多氏との親族としての結びつきを強めることとなる。しばらくは平穏な関係が続いていたが、永禄10年(1567年)の明禅寺合戦の際に援軍を出さなかったことで直家の不興を買う。
 この頃、子の元賢ともども熱狂的な日蓮宗徒となり、他宗の寺社を打ち壊すなどの行動を繰り返したため、領内は荒れた。また、家臣団との関係にも亀裂が生じるようになっていた。
 これを好機と見た宇喜多直家は、同年7月5日に元輝と不仲になっていた伊賀久隆を寝返らせ、久隆に金川城を包囲させた。元輝は篭城戦の指揮を執ったといわれるが、伊賀勢の鉄砲によって狙撃され絶命した。 

松田元賢 松田元脩

 永禄11年(1568年)7月5日、宇喜多直家は前もって調略によって寝返らせていた松田氏の重臣・伊賀久隆(直家の妹婿)に金川城を包囲させる。この篭城戦で父・松田元輝が射殺され、父に替わって指揮を執ることとなる。翌6日、直家は金川城に手勢を繰り出し、伊賀勢と合流して本丸を朝から晩まで攻め立てる。元賢もよく防戦し寄せ手にも多数の死者を出させるが、多勢に無勢でありもはや本丸を支えきれないと悟ると、弟・元脩を伴い夜闇に紛れ密かに城を脱出する。大将が離脱したことにより部下の多くも金川城から退去、程なくして伊賀久隆に城門の守りを破られ、退去せず城に残った松田氏譜代の家臣達は城を枕に悉く討ち死にし金川城は落城する。
 城から退去する事に成功した元賢は、西の山伝いに下田村まで逃げのびたが7日の未明、伊賀の伏兵によって発見されると刀を抜き、敵陣に斬り入って討ち死したという。知らせを聞いた正室の宇喜多直家の娘も程なくして自害。13代、235年間続いた松田氏は滅亡した。
 これ以来、この地では七夕祭りが長い間、行わなくなったという。

 永禄11年(1568年)7月5日、何らかの事情で父や兄、松田の重臣数人と共に金川城に在った元脩は宇喜多直家と通じた伊賀久隆の兵に金川城を包囲されたことにより、戦闘に巻き込まれる。そのまま2日間、身動きが取れずに居たが、金川城落城の際に兄・元賢とともに城を退出。兄とは別行動で逃げ、雑兵に紛れ伊賀久隆の手勢の目を欺き危機を脱する。
 しかし、金川城攻略と同時に富山城にも宇喜多と伊賀の兵が仕向けられており、城主不在の富山城は金川城落城に併せて既に然したる抵抗もできずに落城していたため、松田の重臣の多くは金川城で命を落とすか宇喜多に恭順の意を示すかの行動をしていた。これにより兵を集めて反抗するどころか行く宛てすら無くなってしまった元脩は止む無く宇喜多の手を逃れるため備中へと逃げ延びる。
 その後、一説には因幡の山名豊国に仕えたという。子孫は讃岐に移住し讃岐松田氏と詫間松田氏の2つに分かれた。元三越会長の松田伊三雄は元脩の子孫筋にあたるという。

波多野宗高 波多野宗長

 出自は波多野氏の分家・西波多野氏の一族にあたる。丹波氷上城を築いたり、武勇から「丹波鬼」と呼ばれたりと、智勇ともに優れていた。また、正親町天皇の即位式では洛中を警護した。
 元亀元年(1570年)、盟友の朝倉氏が織田信長と敵対するのを食い止めるために越前国に赴く途中、乱戦に巻き込まれて死んだといわれている。

 播磨国の別所長治や、主家の波多野秀治と結び織田信長に抗戦した。天正7年(1579年)、織田氏の家臣の丹羽長秀,羽柴秀長の軍勢に居城氷上城を包囲されると5ヶ月に及び籠城。しかし、城の兵糧が尽きると、羽柴秀長は宗長の才を惜しみ降伏を薦めるが、宗長は城に火を放ち、子・宗貞とともに自害して果てた。
波多野敬直 波多野清秀

 嘉永3年(1850年)10月、肥前国小城郡牛津(現・佐賀県小城市)に小城藩士・横尾信倚の長男として生まれた。 小城藩校興譲館,熊本の木下塾,大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。
 明治14年(1881年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官,京都地方裁判所長,大審院判事,司法書記官,函館控訴院長,東京控訴院検事長,司法次官,司法総務長官などを歴任した。明治36年(1903年)、第1次桂内閣で司法大臣を務める。
 明治39年(1906年)には貴族院議員(勅選議員)となった。明治40年(1907年)、日露戦争の功労として男爵を授けられ、華族に列した。明治44年(1911年)には東宮大夫として宮内省に転じる。大正元年(1912年)に東宮侍従長を兼任。
 大正3年(1914年)4月9日に宮内大臣となったが、これは昭憲皇太后崩御の当日という極めて異例なものだった。これは前任の渡辺千秋宮内大臣の汚職が発覚したためであり、皇太后崩御発表(4月11日)前に宮内大臣を変える必要があったためであった。大正6年(1917年)には功によって子爵にのぼった。宮中に強い影響力を持つ元老山縣有朋との関係は良くなかったとされる。
 大正11年(1922年)、73歳で死去。正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。 

 室町時代の武将。清秀に当たる人物の名を「秀長」とすることもあるが、一次史料にみられる波多野秀長は別の人物である。
 石見国の吉見氏の一族で18歳の時に上洛して細川勝元に仕えたという。清秀は勝元の命で母方の波多野姓を名乗り、応仁の乱の戦功によって、勝元の子・政元から丹波国多紀郡を与えられた。細川勝元の内衆に波多野秀久がおり、丹波や摂津に奉書を発給している。清秀の「秀」字は秀久の名乗りに通じるもので、清秀の出頭には秀久の後押しもあったのかもしれない。文明17年(1485年)には丹波守護代・上原元秀のもと、多紀郡の小守護代として活動している。また摂津方面にも勢力を伸ばし、摂津国野間荘時友郷の代官を務めた。以後、波多野氏は丹波国に勢力を拡大させていく。
 永正元年(1504年)に62歳で没した。

 

 

 

波多野元清 波多野秀忠

 室町幕府10代将軍・足利義稙から偏諱を受け、稙通と名乗り、室町幕府の評定衆にも列せられたとされるが、稙通という名や評定衆就任の事実は一次史料では見られない。
 波多野清秀の子として誕生した。初め仙甫寿登の弟子となり名を寿浩、号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになり還俗したという。
 父・清秀が永正元年(1504年)6月24日に没した後、9月の薬師寺元一の乱の討伐に参加する。細川政元暗殺後の細川澄元と細川高国の争いでは、高国方に転じている。
 永正5年(1508年)6月には多紀郡の酒井氏を酒井合戦で破り、7月には中沢(長沢)元綱を福徳貴寺で戦死させ、波多野氏を丹波有数の勢力へと発展させた。また、細川高国から信頼を得て、長弟の香西元盛は永正4年(1507年)に死去した香西元長の名跡を、同じく次弟の柳本賢治は永正17年(1520年)に死去した柳本長治の名跡を継いでいる。
 大永6年(1526年)、香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた細川高国に殺害されると、柳本賢治と共に細川晴元に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。翌大永7年(1527年)には病を患っていたようで、当初は賢治と子の秀忠のみが上洛しており、桂川原の戦いにも不参加だった可能性がある。享禄3年(1530年)に病没した。

 大永6年(1526年)、叔父の香西元盛が誅殺されたことで元清ともう一人の弟・柳本賢治が細川高国から離反。高国と敵対する細川晴元と手を組んで、翌大永7年(1527年)2月、高国の軍勢を破った(桂川原の戦い)。秀忠は病身の父・元清の名代として柳本賢治らとともに京都の暫定統治に当たった。
 この後、下山城守護代に任命され京都周辺の支配を委ねられた三好元長との間に軋轢が生じ、天文元年(1532年)に丹波へ下向すると、細川高国の後継者・晴国の陣営へと寝返った。晴国陣営には丹波で対立している丹波守護代・内藤国貞がいたが、翌天文2年(1533年)6月頃に国貞が晴国から離反した。すると、秀忠は内藤家が代々用いる備前守の官途を名乗り、丹波守護代を標榜し始める。また、一族の波多野秀親に船井郡代への補任の判物を発給するなどして自立化を進めていった。
 天文4年(1535年)になると劣勢となった晴国陣営から離れて、晴元方へ帰参。翌天文5年(1536年)には晴国は倒され、晴元は上洛し幕府に出仕するが、この時、守護代格として騎馬で同行したのが秀忠,三好長慶,木沢長政の三人であった。
 天文9年(1540年)、摂津下郡の守護代である三好長慶に娘を嫁がせ、それまで三好氏との間にあった対立関係を解消させている。また丹波支配においては「丹波守護」と呼ばれるまでに至っている。
 天文13年(1544年)10月には、真如堂蓮光院,波多野秀親の兄弟に監督させ、禁裏御所の築地の普請を行った。
 天文15年(1546年)を境に秀忠の姿は見えなくなり、天文17年(1548年)には元秀に代替わりしていることが確認できる。このためこの頃に死没、もしくは隠居したものと考えられる。

波多野元秀 波多野秀治

 丹波国八上城主。12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴通と名乗ったとされるが、一次史料に晴通という名は見られない。
 天文17年(1548年)に家督を継ぐと、父・秀忠に引き続き細川晴元を支持する。同年、同じ晴元陣営で秀忠の娘である波多野氏を娶っていた三好長慶が離縁、晴元と敵対する細川氏綱方の遊佐長教の娘の遊佐氏を娶り、晴元から離反した。晴元は天文18年(1549年)の江口の戦いに敗れ京都を追われたが、その後も長慶に抵抗し続け、元秀もその晴元に味方する。
 天文21年(1551年)4月には三好長慶が元秀の居城・八上城を攻めたが、長慶方として従軍していた芥川孫十郎や池田長正,小川氏が元秀に内通し、長慶は越水城へと引き上げた。同年11月には元秀や丹波国桑田郡の宇津にいた晴元が、桑田郡にいる元秀の一族・波多野秀親に味方になるよう働きかけており、また同じ頃、晴元方牢人衆と長慶・氏綱方の丹波守護代・内藤国貞が同じ桑田郡で合戦を続けているなど、丹波の国人を二分する争いが続いていた。
 天文22年(1552年)9月、三好長慶の家臣の松永久秀・長頼兄弟や内藤国貞らが波多野秀親の数掛山城を攻めるが、晴元方の香西元成・三好政勝(宗渭)の援軍により長慶方は大敗、内藤国貞が討死した。
 弘治元年(1555年)9月と同3年(1557年)10月に八上城は長慶方の攻撃を受け、永禄2年(1559年)12月頃、八上城は長慶方に奪われ、その跡には松永久秀の甥・孫六が入った。内藤氏は丹波国船井郡を拠点とするが、多紀郡の八上城も制圧し、また桑田郡の波多野秀親・次郎父子も内藤宗勝に帰順したことでその勢力を大いに広げた。このこともあり、天文23年(1554年)から永禄4年(1561年)の間、元秀の文書は見られない。
 しかし、永禄5年(1562年)12月には多紀郡味間村の味間伊豆守に夫役免除を行うなどしており、八上城を失ったとはいえ、多紀郡内においてそれらの権限を維持していた。また永禄3年(1560年)10月には三好長慶と敵対する畠山高政の援護のため、京都に波多野右衛門(秀治?)を派遣するなどし、三好氏への抵抗を続けていた。なお、永禄5年(1562年)12月から永禄7年(1564年)11月の間に、孫四郎から上総介へと名乗りを変えている。
 この後、三好家では永禄7年(1564年)に長慶が死去。その跡を継いだ義継とそれを支える重臣・三好三人衆らが永禄8年(1565年)5月に将軍・足利義輝を殺害する(永禄の変)など波乱が続く。その最中の永禄8年(1565年)8月、丹波氷上郡の荻野直正に敗れて内藤宗勝が討死し、翌永禄9年(1566年)2月、元秀は八上城を攻め、松永孫六が退去したことで奪還に成功。これにより丹波の三好権力は駆逐された。
 元秀はこの後、程なく死去したとみられ、元亀元年(1570年)までに秀治がその跡を継いでいる。 

 丹波波多野氏最後の当主。父・元秀は細川晴元を支援して三好長慶と抗争し、永禄2年(1559年)12月頃、三好家臣・松永長頼に居城・八上城を奪われたが、長頼戦死後の永禄9年(1566年)2月に奪還する。
 永禄3年(1560年)10月には、秀治とみられる波多野右衛門が、三好長慶と敵対する畠山高政援護のため京都へ派遣されるが、その際、右衛門の弟が討死している。
 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。秀治は信長に太刀や馬を贈り、元亀元年(1570年)11月24日付でその返礼を受け取っている。
 天正3年(1575年)10月、荻野直正退治のため、織田信長が明智光秀の軍勢を丹波に派遣してくる。この時、丹波衆の大半が光秀に味方し、秀治もその中へと加わっていたが、天正4年(1576年)1月、秀治は突如叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。天正6年(1578年)3月、光秀は再び丹波に出陣すると秀治の籠る八上城を包囲し、兵糧攻めを開始した。11月には光秀の不在を狙って打って出、また翌天正7年(1579年)1月にも戦闘が行われたと見られ、八上城を包囲する小畠越前守が討死している。2月には商人の兵庫屋惣兵衛に徳政の免除などをしており、外部から籠城への支援があったとも考えられる。しかし、光秀方の包囲が厳重さを増す中、兵糧も尽き、天正7年(1579年)6月1日、調略にともなう味方の裏切りによって秀治ら波多野兄弟は捕らえられた。その後、弟二人とともに安土に送られ、同年6月8日に安土の慈恩寺町末で磔に処された。なお、兵庫県丹波篠山市味間奥にある波多野秀治墓には「天正六戊寅年 六月十日戦死」とある。
 丹波篠山市に伝わる伝承によると、秀治の次男・甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ち延びた。のち、波多野定吉と名乗り、篠山藩に仕えたという。

 

波多野秀長 波多野秀親

 通称は与三右衛門尉。丹波国の有力者・波多野秀忠の一族で、荒木清長とともにその重臣として仕えた。
 秀忠が細川晴国に味方し、天文2年(1533年)以降、細川晴元と対立するとそれに従う。年未詳の穴太での合戦では、秀長に属し、晴国から感状を与えられた在地領主の長尾氏に知行地を与えるなどしており、在地領主に軍事動員をかけうる立場であったことがわかる。 

 丹波国数掛山城主。波多野秀長の子とみられる。秀親は秀長と同じく波多野氏の重臣として仕え、波多野氏が代官職を手にしていた禁裏御料の上村荘を支配した。
 大永6年(1526年)に惣領家当主の波多野元清が細川高国に反旗を翻した際は、元清らとともに細川晴元方として戦った(神尾合戦)。
 この後、桂川合戦の論功行賞にともなってか、大永8年(1528年)6月までに「波多野次郎」から「松井与兵衛尉」に名を改めている。秀親の拠点・上村荘の付近には松井宗信ら松井氏が勢力を保持しており、松井氏に改姓することでこの地における支配が有利になった可能性がある。また松井姓を名乗ったのは波多野氏が宗信と同じ晴元陣営にいる時のみであり、宗信とは別の松井一族の名跡を継いだものと思われる。この後、「波多野与兵衛」の名乗りと共に松井姓が使われるが、天文14年(1545年)以降は波多野姓のみが用いられている。
 天文3年(1534年)7月2日には波多野秀忠より船井郡代に任じられ、桑田郡や多紀郡においても代官職を与えられている。同年と推定される7月22日の京口合戦では細川晴国方として戦い、与力や被官が多数討死しているが、翌天文4年(1535年)7月、秀忠の子・太藤丸の上洛に付き従っており、この時までに波多野氏は細川晴元方に帰参していた。
 天文18年(1549年)、江口合戦で細川晴元方が三好長慶に敗れると、秀忠の跡を継いでいた波多野元秀は、秀親やその子・次郎に対し離反しないよう新知を用意している。
 天文21年(1552年)正月、江口合戦以来争っていた将軍・足利義輝,細川晴元と三好長慶の間で一時和睦がなり、朽木に逃れていた義輝が入洛を果たした。その際、秀親もそれに従って入京している。この時、三好方と和議を結んだ秀親は微妙な立場となったとみえ、三好方と敵対し続ける細川晴元や元秀は秀親の帰参に腐心することとなる。同年11月には細川晴元や元秀から知行安堵と引き換えに協力を求められ、翌天文22年(1553年)8月にも元秀から知行地の返付を受ける。こうしたことから、秀忠期にその支配下に入っていた秀親が、元秀に対して相対的に独立性を強めていたことが推測される。
 最終的に晴元方への味方を決めた秀親は、同年9月、三好方の松永久秀・長頼兄弟による攻撃を受け、数掛山城に籠城した。晴元方の援軍として香西元成,三好政勝が現れたことで三好方は敗れ、三好方に加わっていた内藤国貞らが戦死した。この戦いの功により、晴元から秀親に感状が送られている。
 永禄2年(1559年)12月頃、惣領家から離れた秀親・次郎父子は内藤宗勝に帰順し、宗勝から多紀郡内に知行を宛行われている。また、波多野元秀の居城・八上城も宗勝によって制圧され、八上城攻めには波多野次郎も宗勝方として加わっていた。宗勝の手に落ちた八上城へは松永氏の一族・松永孫六が入った。
 この後、永禄8年(1565年)8月に内藤宗勝が氷上郡の荻野直正との戦いで討死し、翌永禄9年(1566年)2月には波多野元秀が八上城を奪還するが、秀親の動向は明らかではない。
 「波多野勘兵衛尉宗春墓碑」によると、明智光秀の丹波攻略にともない数掛山城は攻め落とされ、秀親は3人の子とともに自害したという。幼い4男は姉の嫁いだ能勢氏のもとに逃れ、のちに波多野勘兵衛尉宗春と名乗ったとされており、吉田新田を開発した吉田勘兵衛(波多野氏に起源を持つ摂津国能勢郡の西田氏出身)との血統上の関係がうかがえる。