<藤原氏>北家 秀郷流

F954:波多野義通  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐伯経範 ― 波多野義通 ― 大槻高義 F956:大槻高義

リンク F955
松田頼秀 松田盛秀

 小田原評定衆の一人。足柄郡を領し、西相模領主大森氏,山内上杉家に属していた。
 長禄2年(1458年)、将軍・足利義政の命で父・頼重と共に関東へ下向する。寛正3年(1462年)、享徳の乱を鎮めるために奉公衆から抜擢された者が足利氏一族でも家格が高い家柄の渋川義鏡と共に、室町幕府から関東に派遣された。足利政知(堀越公方)の補佐役(執事)として京都より下向するも、関東の扇谷上杉氏と対立、失脚した。頼重・頼秀も渋川義鏡と共に下向したが、義政は有力者の扇谷上杉氏を無視できず義鏡を見限った。その時に頼重・頼秀も義鏡と共に失脚し、足利政知によって頼秀の跡地東大友半分を鶴岡八幡宮へ寄進されてしまった。
 寛正6年(1465年)、足利義政、松田左衛門尉跡を足利政知の家臣木戸実範に兵糧料所として預け置いた。松田頼秀は伊豆国の堀越公方に敵対し所領を没収された。
 明応3年(1494年)、扇谷上杉定正,大森藤頼と対立し窮地に陥る。当時の足柄地方は大森氏の全盛期で、松田家は存亡の危機の時であった。小田原城に居城していた大森氏は扇谷上杉定正に属し、西相模に勢力を保持していた。松田頼秀は、扇谷上杉定正と対立する山内上杉顕定と結んでおり、四方に敵を受けて窮地に陥っていたが、大森氏家中や足柄地域の有力国人衆を味方に付け、父と同郷同僚であった北条早雲への協力を説いて回った。 山内・扇谷上杉両家の抗争が再燃すると、扇谷上杉定正と大森氏頼は山内上杉氏方に参陣する頼秀を急襲。丹沢山中に退避したが、討死を覚悟し自ら開基した龍泉寺住職宛てに遺言状を書き残した。 9月17日、龍泉寺に近い西野々で敵に囲まれ自刃。

 後北条氏の家臣。北条早雲(伊勢盛時),北条氏綱,北条氏康の三代に仕えた。初名は顕秀、後に最初の主君である伊勢盛時から偏諱(「盛」の1字)を受けて盛秀と改名した。
 小田原城の奉行と評定衆を務め、それとは別に天文24年(1555年)頃から鎌倉街道の要所であり、北条氏の直轄地である下総国・関宿の代官を兼務するなど、後に北条氏の重臣となる息子・憲秀と同じように早くから重臣として政務に関与していたと思われる。永禄元年(1558年)4月に古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮に参拝した後、小田原城内で招かれた北条氏康主催の宴会では終了の挨拶を宿老達の中で一番はじめに行い 、義氏に馬と太刀を贈呈している。永禄2年(1559年)の役帳では小田原衆の筆頭者が、息子の憲秀になっているので、この頃には家督を譲っていたものと推測される。没年は不明だが、以後の記録に乏しいため、前後に没したと思われる。 

松田憲秀 松田直秀

 松田家は北条早雲以来の譜代の家老の家柄で、2,798貫という知行を食む大身である。
 憲秀は家老として北条氏康に仕え、様々な内政政策や千葉氏・里見氏などの諸勢力との外交面で辣腕を振るった。また、元亀2年(1571年)には駿河深沢城にて北条綱成と共に籠城して武田勢から守備、国府台合戦、神流川の戦いなどの諸戦に従軍し、各地を転戦した記録も多く残る。氏康死後は氏政に仕えた。当時一国の大名ほどの格式を持ち、文書発給の際に印章を使用した。文書に判を押すのは東国の戦国大名の特徴でもあった。
 天正8年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男の笠原政晴とともに豊臣方に内応しようとした。しかし、次男・直秀の注進があり北条氏直によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害された。この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれている。この結果、北条家仕置時に、秀吉にその不忠を咎められて切腹した。
 なお、政晴については、僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、寛永3年(1626年)に60歳で病死したという寺伝も残っている。 

 諱の直秀の「直」の字は主君・北条氏直から偏諱。兄・政晴は笠原氏の家督を継承していたため、直秀が松田氏の家督を継承する。天正17年(1589年)5月に父の隠居により家督を継承、左馬助を称す。直秀は北条氏直より寵愛されていた。天正18年(1590年)、小田原合戦では小田原城に籠城したが、籠城中に父や兄が豊臣秀吉に内応したことを北条氏直に告発。その忠義を激賞された。小田原城が開城した後、氏直に従い高野山に入るが、氏直が死去した後は前田氏に4千石で登用された。

 

松田康長 松田直長

 北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。主に奏者や奉行衆として政務に関わり、寺社関連や楽市制度などに携わった発給文書が残る。
 永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』に御馬廻衆として約700貫文を領しているのがみえる。
 天正15年(1587年)11月、豊臣氏との対戦に備えて山中城の構築にあたっている。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、山中城主となった。翌天正18年(1590年)、山中城に押し寄せた豊臣秀次らの率いる約7万の軍勢の攻撃に対し、奮戦したものの半日で城は落城し、城兵とともに戦死した。享年は54とされる。

 北条氏に仕え、5代目当主・氏直から偏諱を授かっている。天正18年(1590年)小田原征伐の際に伊豆国山中城の戦いで戦死した父・康長の跡を継ぎ、相模国愛甲郡荻野郷,伊豆国牧郷など337貫600文余を知行した。同合戦で北条氏は没落するが、文禄4年(1595年)、北条氏に代わって関東を支配する徳川家康に仕え、旧領荻野郷に230石余を与えられ、後に200石を加増された。慶長19年(1614年)から勃発した大坂の陣には双方の戦に参陣。寛永2年(1625年)、相模国愛甲郡(のち上総国武射郡),上総国山辺郡,下総国香取郡内に430石余を与えられた。慶安元年(1648年)、徳川家綱付きとなった。明暦3年(1657年)8月まで生きて、96歳の長寿を全うした。
松田康郷

 父・康定は小田原衆のひとりであったと伝わる。永禄9年(1566年)、上杉謙信が北条方の下総国臼井城へと侵攻して来た際に同国の大和田城を守っていた康郷は、百騎を率いて千葉胤富,白井胤治らが籠もる臼井城へと駆け付け、奮戦の末に上杉本陣直前まで切り込み、上杉軍を撃破することに成功した(臼井城の戦い)。軍神とまでいわれた謙信自らが率いる軍団に多大な被害を負わせたこの戦いは、謙信生涯最大の敗戦といわれ、この戦功により北条氏政から感状と相模国足柄下郡に二百貫を賜った。
 この戦の際に朱色の甲冑・具足という赤備えの装備で現れた康郷の働きを見て、上杉謙信が「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし」と感嘆し、「鬼孫太郎」「松田の赤鬼」などの異名を取り大いに武名を高めた。
 その後も天正10年(1582年)の神流川の戦いなど、北条氏に仕えて各地を転戦するが、天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、山中城を守備し奮戦するも城は落城した。小田原城が落城し北条氏が滅亡した後は結城秀康に仕えた。