<藤原氏>北家 秀郷流

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佐伯経範 波多野遠義

 『尊卑分脈』『系図纂要』などの諸系図は経範の父を藤原秀郷の後裔である相模守公光とする。生母は佐伯氏で、経範が藤原氏でなく佐伯氏を称したのは母方の氏を称したためであるとされている。ただ、経範の兄弟はいずれも父祖以来の「公」の字を偏諱として持つが、経範だけは持たない。また母を大江氏とする経範兄弟の公季について、『続群書類従』所収「秀郷流系図」が佐伯氏の祖としているという矛盾が見られる。そのため経範を相模守・公光の子とするのは東国の名族である藤原秀郷の子孫に位置づけるための後世の付会であり、実は別の氏族であるという見解も存在する。経範とその子孫である波多野氏が所領とした相模国余綾郡幡多郷は渡来系豪族の秦氏が経営したことに因むといわれ、実際に経範が活動した時期の国司に秦氏の名が見える。そのため本来秦氏だったものがより名高い武門の後裔を称するために秀郷流藤原氏の末裔と記されるのに至ったのではないか、ともいう。
 前九年の役を題材とする軍記物語『陸奥話記』の黄海の戦いの条によれば、源頼義が鎮守府将軍に任じられた際、経範もまた鎮守軍監に任じられたとする。
 永承6年(1051年)、陸奥国俘囚の安倍氏が陸奥国府に抗ったことに端を発して始まった前九年の役は、新任の陸奥守である源頼義によって一度は慰撫されたものの、天喜4年(1056年)に安倍氏は再び蜂起するに至った。既に天喜元年(1053年)に鎮守府将軍を兼任していた頼義は安倍氏と戦い、俘囚方も安倍頼時、その死後は子の貞任を大将として反抗を続けた。
 天喜5年(1057年)11月、頼義は兵1,800余を率いて進軍。磐井郡黄海で防ぐ安倍貞任軍4,000余と交戦したが、雪荒ぶ天候に加えて長陣の疲弊もあって大敗を喫するに至った。経範は敵軍の包囲から脱出したものの、大将である頼義の行方が知れなかった。敗走時に頼義を見たという兵から「寡兵で敵に包囲されていたので脱出はとても叶わない」という報を聞いた経範は、頼義が戦死したことを嘆き、命運をともにして討ち死にしようと敵軍の中に取って返した。経範の従者たちもまた主に倣い、主従揃って10余人の敵を討ったものの枕を並べて戦死した。しかし頼義は息子・義家らと死地を脱していた。経範は主が存命であることを知らずに殉死したのである。
 経範の子孫は引き続き朝廷に奉仕しながらも相模国余綾郡・足柄上郡に繁栄し、同地の地名から波多野氏,河村氏,大友氏などの氏族を輩出した。

 相模国余綾郡幡多郷を中心に形成された波多野庄を本領とした波多野氏の惣領。波多野庄は藤原氏摂家に相伝された荘園で、受領階層だった波多野氏も在地支配を実行しつつ朝廷へ出仕した。
 遠義も崇徳天皇の蔵人所衆として在京し、天治元年(1124年)には斎宮・守子女王の初禊に従事している。波多野氏は遠義の家祖・経範の代より河内源氏の家人に列したが、遠義の子は波多野庄を継いだ次男・義通以下多くが源義朝や頼朝に従い、中世栄えた河村氏,大友氏などはいずれも遠義の子孫にあたる。 

波多野義景 岩間盛通

 義景の兄とも、従兄弟ともされる波多野義常は、源頼朝の旗揚げの際、合力を呼びかけられたが、拒絶して敵対したのち討手を差し向けられて自害した。義景は頼朝の宥恕を得、波多野氏の家督相続と、本領である波多野荘の保有を許可された。
 元暦元年(1184年)5月、子の盛通が志田義広討伐軍に加わっている。文治4年(1188年)8月23日、波多野本庄北方の所領の所有権を巡って岡崎義実と抗争し控訴となる。義景は、北方の土地は保延3年(1137年)正月20日に祖父・波多野遠義が2男の義通に譲与し、嘉応元年(1169年)6月17日に義通から義景に譲与されたものであり、以来他に譲渡されたことはなく、本件に関しては岡崎義実の横領であると主張した。頼朝の裁定の結果、義景の勝訴となった。
 文治5年(1189年)に起こった奥州合戦では、他の御家人らと共に従軍した。出陣に先んじて、戦場で討死する覚悟を宣言し、所領を幼い息子に譲っており、義景の覚悟は頼朝を大いに感心させた。
建久6年(1195年)、頼朝が東大寺供養の儀式を行った際は供奉を務めている。元久3年/建永元年(1206年)、源実朝が殿中で相撲を興行した際、奉行人を担当しており、これが『吾妻鏡』における義景の最後の登場となっている。 

 甲斐国八代郡岩間の地を領し、岩間三郎とも称された。正治2年(1200年)、梶原景時の変では梶原氏に属した勝木宗則と戦う。宗則は相撲の達者かつ筋力に優れた武士で、盛通は畠山重忠の助力を得てこれを無事に捕縛することに成功した。真壁秀幹が宗則を捕らえたのは畠山重忠であるとして盛通の戦功を疑ったが、重忠自身が盛通を弁護したため事なきを得た。
 建暦3年(1213年)の和田合戦では、傍流の波多野忠綱や朝定らが北条氏方の先鋒を務める中、和田氏方の主力を担った横山党の女婿だった関係で和田義盛に味方する。開戦2日目の5月3日に舅の横山時兼とともに増援として参陣したが、同日の合戦に和田氏方は敗れて盛通も同太郎・弥次郎とともに戦死した。戦後、甲斐岩間の地は伊賀光季に与えられている。 

大友経家

 波多野氏の惣領・遠義の子とも義通の子ともいわれ、相模国足柄上郡大友郷を領して名字の地とした。治承・寿永の乱では源頼朝に従い、源範頼・義経らが指揮する西国の合戦に従軍。元暦2年(1185年)の平氏滅亡後、鎌倉へ帰還した経家は頼朝に召されて合戦の詳細を報告している。
 経家は鎌倉幕府の文官・中原親能を幼少の頃より自領で養育し、自らの女婿として大友郷を継承させていた。そして、文治4年(1188年)までには親能の養子となっていた経家外孫の能直が継承し、母方の名字を継いで大友氏を称して後の九州大友氏の祖となった。