<藤原氏>北家 秀郷流

F954:波多野義通  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐伯経範 ― 波多野義通 ― 波多野義元 F959:波多野義元

リンク F960
波多野義定 波多野朝定

 伊勢国に所領を持った波多野義元の子。治承3年(1179年)に高倉天皇の蔵人となる。
 伊豆国で反平氏政権の兵を挙げた源頼朝に呼応し、治承5年(1181年)、伯父の忠綱とともに、熊野海賊菜切攻めで敗走した平氏家人の伊豆江四郎と度会郡宇治で戦い、江四郎の子らを討ち取った。元暦元年(1184年)、大井実春,山内首藤経俊や大内惟義の家人らとともに伊勢羽取山で源義広と戦ってこれを討った。
 平家滅亡後の文治元年(1185年)、鎌倉の勝長寿院落成供養に随兵として列参。この頃には相模へ居を移して伊勢の本領には眼代を置いたが、文治3年(1187年)、義定の眼代が斎宮寮領の多気郡櫛田郷を押領していることが発覚。当時、斎宮潔子内親王の群行が控えていたことから、朝廷との軋轢を回避するために義定の新恩地は没収されてしまった。

 

 鎌倉幕府御家人。建仁3年(1213年)、和田合戦では大伯父の忠綱父子とともに北条氏方として和田義盛方と戦う。合戦の最中、法華堂に退避していた源実朝が鎌倉近在に布陣した西相模の武士らを慰撫するために御教書を発給しようとした際、朝定は傷を負いながらも戦場から実朝の元へ参上して奉書を作成し、彼らを味方に引き入れることに成功した。
 建保6年(1218年)2月、実朝の近衛大将任官に際して上洛し、かつて源頼朝が就いた右大将ではなく実朝の望む左大将に任ずるよう関白近衛家実に運動し、達成するや鎌倉へ戻って使節の労を賞された。
 承久3年(1221年)、北条政子の夢に兵乱到来を告げ、北条泰時の伊勢信仰を求める伊勢神宮の神託があったため、朝定は神宮神職荒木田氏の外孫にあたる縁から奉幣使として伊勢へ派遣され、実際に承久の乱で幕府方が勝利すると領地寄進のために再び神宮に赴いている。
 天福2年(1234年)、合奉行が設置されると、その一人に任命された。仁治3年(1242年)に出家して蓮阿と号。年は不明だが91歳で没したという。朝定は和歌に長じ、貞永元年(1232年)には永福寺の和歌会や嘉禎3年(1237年)の御所の和歌会に参加している。『続後撰和歌集』にも入集している。

白川義典 中嶋重好

 鎌倉時代前期の武士。伊勢神宮を本家に持つ高座郡大庭御厨内に所領を有し、神宮関係者を妻に迎えていた。
 建保6年(1218年)12月、前年に鶴岡八幡宮寺別当となっていた鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の遺児・公暁に命じられ、奉幣使として伊勢神宮へ派遣された。しかし翌建保7年(1219年)1月、公暁は源実朝を鶴岡八幡宮に殺害し、自身も捕らえられて殺されてしまった。翌月、伊勢よりの帰路にあった義典は事の次第を知り、三河国額田郡矢作の地で自殺した。21歳。死後、大庭御厨の遺領は没収されたが、義典が妻の家から相続していた所領については伊勢神宮に還付されている。

 天正4年(1576年)、父の重次は武田勝頼が駿河に出張ってきたときに物見に出て討ち死したが、その時、嗣子・重好は10歳だったため、母は重好とその姉2人を連れて板倉勝重に再嫁し、2女及び重好は勝重の養子となった。
 重好は成長した後、家康に拝謁して三百俵を賜い、再び中嶋の家を興し、後には三河国渥美郡大崎において六百石余を知行し、その子・重春の代より交代寄合となった。このように中嶋家は備中松山藩板倉家の類家であり、参府に際しても拝領屋敷はなく、松山侯邸に同居した。