<藤原氏>北家 秀郷流

F954:波多野義通  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐伯経範 ― 波多野義通 ― 波多野忠綱 F957:波多野忠綱

 

リンク
波多野忠綱 波多野経朝

鎌倉幕府御家人。相模国余綾郡波多野荘を名字の地とする波多野氏の惣領・義通の子で、伊勢国の所領を相続していた。異母兄の義常は治承4年(1180年)源頼朝に敵対したために滅ぼされたが、忠綱や甥の義定らは頼朝に従い、治承5年(1181年)、熊野海賊菜切攻めで敗走した平家家人の伊豆江四郎を度会郡宇治で討ち取っている。平家滅亡後の文治元年(1185年)、鎌倉の勝長寿院落成供養に随兵として列参。この頃には忠綱は伊勢を離れて本領の相模へ居を改めている。建久元年(1190年)と同6年(1195年)の頼朝の二度の上洛にも随行した。
 正治元年(1199年)、梶原景時の変では景時弾劾の御家人66人に名を連ねる。建仁3年(1203年)、比企能員の変後の混乱で仁田忠常が北条時政に討たれたと誤解した忠常弟の忠正・忠時らが時政の子・義時を襲撃した際には、これを守って忠正を討ち取った。
 元久2年(1105年)、畠山重忠の乱では甥の有常らとともに北条義時に従って畠山重忠軍と戦う。建仁3年(1213年)の和田合戦では北条氏方として子の朝経や大甥の朝定らを率いて参戦し、初日の合戦では米町辻と政所前の2度の戦闘で先陣を切って活躍したが、後になって三浦義村が後者の先陣だったと主張したため論争となった。北条義時は忠綱へ恩賞を約束し、功を義村に譲るよう内々に説得したがこれを断り、将軍実朝の前で義村と対決することとなった。二階堂基行らの目撃証言から忠綱の功との結論に至ったが、議場で「先陣の忠綱を見落とした義村は盲目なのだろう」と罵倒したことが咎められ、褒賞は与えられなかった。建保4年(1216年)には相模川における河臨祓に列参している。なお、建長2年(1250年)、源実朝の十三回忌を弔うため、波多野荘の金剛寺を中興したと伝わる。

 鎌倉幕府将軍・源頼家,実朝に近習として仕え、建暦3年(1213年)、芸能達者の者として北条泰時,安達景盛らとともに学問所番のひとりに選出されている。建暦3年(1213年)の和田合戦では父とともに幕府方に属し、初日の合戦で先陣を務めた父に従って足利義氏らとともに後退する和田義盛方を追撃。父は三浦義村への悪口が咎められて褒賞を削られたものの、経朝は問題なく戦功を賞された。戦後、一族の広沢実高が和田義盛へ内通を疑われた際には、一族らとともにその弁解を行っている。
 承久3年(1221年)、承久の乱では弟の義重とともに北条泰時軍に属し、美濃摩免戸の戦闘では北条時氏・有時に従って官軍を撃破。続く宇治橋の戦闘では1人を討ち、熊野法印・快実の太刀を分捕る高名を立てた。嘉禄3年(1227年)、前伊豆国司の家来だったという百姓が後鳥羽法皇の第三皇子と称して策謀を企てていたため由比ヶ浜で捕縛し、その功で美作国に所領を与えられる。
 射術に優れ、正治2年(1200年)、源頼家が大庭野で狩りを行った際に1射で2匹の狐を射たため「両疋飲羽」と称されている。また和歌にも通じ、天福元年(1233年)の端午の和歌会に参加している。

波多野義重 野尻時光

 越前志比庄地頭であったことから、道元禅師に大仏寺(後の永平寺)を寄進した。波多野五郎と称した。
 多くの記録が残っているわけではないため詳細は不明であるが、承久3年(1221年)、承久の乱に於ける木曽川周辺の合戦では、右目に矢を受けながらも敵に射返すなど、戦場で活躍した様子が伝わっている。宝治元年(1247年)11月に行われた鶴岡の放生会の際には、随兵序列について三浦盛時と争うなどしている。
 義重は六波羅探題での役目柄や屋敷が建仁寺の隣にあった縁で曹洞宗の開祖・道元と早くから親交があり、深く帰依してその活動を援助した。興聖寺が比叡山の衆徒から焼き討ちにあった際には、地頭として所領を持っていた越前国志比荘に招聘し、土地を寄進して永平寺の建立に貢献した。同仏殿内に像が祀られている。また、建立しただけではなく、その後も何かと道元禅師僧団には援助をしていたようで、大仏寺殿如是源性大居士という戒名を授かったという。また、実際の交流で記録に残ることとしては、道元禅師自身は波多野義重から『大蔵経』を寄進されたことを殊の外喜んでいる。
 現在、彼の子孫は曹洞宗の檀家筆頭に位置づけられている。

 波多野忠綱の息子・義重に2子があり、史料によってどちらが兄であるかは不明であるが、その内の一人が時光である。波多野孝家所蔵『波多野血統鑑』には、時光の兄弟・宣時は「一生病身、不続家」、時光は「宣時蟄居、依之家督相続」とあり、本来は宣時が長男として家督を継ぐ立場であったが、病身であったために時光が家督を譲られたというのが実像であったようである。
 波多野義重は承久の乱において北条泰時率いる東海道方面軍に属し、この時の武功によって六波羅評定衆に登用された。一方、承久の乱の北陸方面では北条朝時率いる軍団が越中国砺波郡般若野荘の戦いで京方の軍勢を破り、この時、砺波郡在地武士の石黒三郎は朝時軍に降った。石黒三郎は朝時配下の合田氏を孫娘の壻に迎えて存続を図ろうとしたが果たせず、石黒三郎の一族が砺波郡を離れた後にその旧領(石黒下郷=野尻郷)に入ったのが波多野時光であった。波多野時光が野尻郷に入った経緯は明らかではないが、鎌倉幕府に反抗的であった石黒一族を牽制するために、小矢部川水運の結節点として越中西部の要衝たる野尻地方に有力御家人の波多野氏を配したものとみられる。また、北条朝時に次ぐ副将格として北陸方面軍に加わった結城朝広は波多野氏と同じく藤原秀郷を祖と仰ぐ一族で相互に交流があり、結城朝広の推挙によって波多野時光は野尻郷に入ったのではないかとする説がある。
 波多野氏の本家は在京して六波羅探題評定衆を務め、越中国に留まることはなかったが、恐らくは庶系の子孫が野尻に定着し、以後、波多野時光の子孫が野尻氏を称するようになる。南北朝時代に桃井直常に味方した波多野下野守は野尻時光に始まる野尻波多野氏の出であった。