嵯峨源氏

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渡辺 伝 遠藤盛遠(文覚上人)

 平安時代後期の武士。従五位下・滝口武者、摂津渡辺党惣官。諱は傳とも記される。
 白河天皇,堀河天皇の滝口武者を務めた。長承3(1134年)年に卒去したが、西に向かって念仏を唱えての大往生だったと伝えられる。渡辺党の惣官職は嫡子の重が継承した。

 北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。
 京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児・六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。
 頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。
 『愚管抄』には、乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ、また、文覚と頼朝は4年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとする。『玉葉』によれば、頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたと言う。『源平盛衰記』は、出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとするが、事実かは不明。