嵯峨源氏

G009:渡辺 安  源 融 ― 渡辺 綱 ― 渡辺 安 ― 渡辺 至 G015:渡辺 至

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渡辺 守 向山盛吉

 戦国時代には甲斐守護・武田氏に仕える。武田時代の事跡としては「西湖区有文書」年未詳2月1日付け畑昌方書状において、塩の運搬を依頼されていることが知られる。
  天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は、三河国の徳川家康に仕える。同年6月には本能寺の変により、武田氏滅亡後には甲斐・信濃の武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生するが、天正壬午の乱において家康は中道往還を甲斐へ侵攻し、因獄佑は家康の道中案内を務めた。家康は因獄佑に案内され、同年8月9日に甲府・尊躰寺に到着すると、翌8月10日には本陣を甲府から新府城へ移した。因獄佑は家康から本栖城の警護を命じられると本栖へ帰還した。
  同日、相模国の後北条氏の甲斐都留郡侵攻に伴い、吉田の吉田衆や西湖周辺の西之海衆ら富士北麓の御師・土豪が後北条氏に糾合され、本栖へ侵攻した。因獄佑は家康から家臣・安倍信盛を援軍に派遣され、丸尾において後北条勢を撃退した。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、天正壬午の乱は終結する。
 なお、因獄佑は富士山北麓の御師としても活動していたが、徳川氏の旗本になった際には檀家を河口御師・三浦外記(猿屋)に譲渡したという。
  天正18年(1590年)7月の徳川氏の関東転封にも随行し、武蔵国入間郡矢加賀村を給地とする。天正19年(1591年)の奥州出陣において、岩手沢において死去する。
  因獄佑の没後には嫡男の安が旧領に復帰し、安の没後には因獄佑の次男・長が家督を継承する。『甲斐国志』によれば子孫は本栖の番人を務め、『寛政譜』によれば、享保7年(1722年)に無嗣断絶となる。

 向山丹後守盛吉(渡辺氏から改姓)など、戦国期には武田氏に従い高遠城に拠った。武田氏の没落後は甲斐を領した徳川家康や家康に従った保科氏に仕え、武家として存続する。向山丹後守子孫は江戸旗本、向山出雲守子孫は会津藩や渡辺氏に仕え野本藩や伯太藩重臣として明治維新を迎えた。

 

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