嵯峨源氏

G005:源 融  源 融 ― 渡辺 綱 G006:渡辺 綱

リンク G007G009G016G019H120
渡辺 綱 奈古屋 授

 武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住し、渡辺綱あるいは渡辺源次綱,源次綱と称し、渡辺氏の祖となる。
 摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。大江山の酒呑童子退治や京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻り橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。
 先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。
 大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天満宮(近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。
兵庫県川西市西畦野の小童寺の境内に綱の霊廟がある。

 源頼光が正暦元年(990年)肥前守に任ぜられ、綱を同伴して松浦郡に下向し、筒井村に住み、任期を終えて正暦5年(995年)に帰洛した。この間に綱は奈古屋で授という男子をもうけ、地名から奈古屋授(源次授,渡辺授)と名づけた。これが松浦氏の祖が肥前国と関係をもつことになった初めである。授の子・瀧口泰が松浦久の父。
松浦 久 筒井 久
 延久元年(1069年)、瀧口泰の子・源久(源次久,渡辺久)は松浦郡宇野御厨の荘官となり、松浦,彼杵郡及び壱岐の田およそ2230町を領有して梶谷に住み、松浦久と名のり、次いで検非違使に補され、従五位に叙された。松浦久は、源太夫判官と称して松浦郡,彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。『松浦家世伝抄』では久安4年(1148年)9月15日死去、『松浦大系図』『松浦党系譜』では久寿元年(1154年)9月15日死去とする。

 渡辺綱の次男として、正暦年間に肥前国松浦郡筒井村で生まれる。兄に奈古屋授がいた。数年後に父の主君の源頼光の地方赴任が終わると、帰京して京で元服を迎えた。
 歳月が流れて、朝廷から判官に任命されて、源頼国に仕えた。後に誕生地の肥前国松浦郡波多郷にある鬼子獄の要害で、もと信濃国福原の武士で、平忠常の郎党であった稲江多羅記の子の狐角が砦壁を築いて、反旗を翻すと、肥前国司は狐角の狼藉行為に手をもて余したために、久は勅命で狐角を討伐するために遠征し、これを撃退したという。以降は、一時的に肥前筒井城に据えて構えたとされ、数年後に京に戻ったという。
 『尊卑分脈』では松浦久と同人物とする。