延久元年(1069年)、瀧口泰の子・源久(源次久,渡辺久)は松浦郡宇野御厨の荘官となり、松浦,彼杵郡及び壱岐の田およそ2230町を領有して梶谷に住み、松浦久と名のり、次いで検非違使に補され、従五位に叙された。松浦久は、源太夫判官と称して松浦郡,彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。『松浦家世伝抄』では久安4年(1148年)9月15日死去、『松浦大系図』『松浦党系譜』では久寿元年(1154年)9月15日死去とする。 |
渡辺綱の次男として、正暦年間に肥前国松浦郡筒井村で生まれる。兄に奈古屋授がいた。数年後に父の主君の源頼光の地方赴任が終わると、帰京して京で元服を迎えた。 歳月が流れて、朝廷から判官に任命されて、源頼国に仕えた。後に誕生地の肥前国松浦郡波多郷にある鬼子獄の要害で、もと信濃国福原の武士で、平忠常の郎党であった稲江多羅記の子の狐角が砦壁を築いて、反旗を翻すと、肥前国司は狐角の狼藉行為に手をもて余したために、久は勅命で狐角を討伐するために遠征し、これを撃退したという。以降は、一時的に肥前筒井城に据えて構えたとされ、数年後に京に戻ったという。 『尊卑分脈』では松浦久と同人物とする。
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