嵯峨源氏

K316:嵯峨天皇  源 融/勤/啓 G005:源 融/勤/啓

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源 融 源 湛

 嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。
 六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承が残されており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。
 貞観14年(872年)に左大臣にまで昇ったが、貞観18年(876年)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。光孝天皇即位後の元慶8年(884年)、政務に復帰。
 なお、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。
 また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。
現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。

 平安時代前期の公卿。貞観5年(863年)に無位から従五位下に叙位され、その後、備後権介,右近中将,蔵人頭,内蔵頭などを歴任して寛平5年(893年)参議となる。更に延喜8年(908年)従三位中納言となり、同13年(913年)大納言になったが、翌年致仕して延喜15年(915年)5月21日薨去した。早く死別した妻・藤原氏のために七七日修功願文、亡父融の周忌法会願文がいずれも『菅家文草』に収録されている。土御門大路北・木辻小路東に所在した宇多院は、もともとは湛の邸宅だったらしい。
源 昇 源 任
 河原大納言と号した。貞観17年(885年)正月に従五位下に叙位された。その後、土佐権守,右馬助,左兵衛佐,左衛門権佐,近江介などを歴任。左衛門権佐に在任していた仁和2年(886年)5月、勅令を受けて近江国に新道を開くため、阿須波道の利害を検している。寛平2年(890年)侍従になる。寛平4年(892年)2月、木工頭を兼ねて蔵人頭になり、同年左中弁になる。寛平7年(895年)10月参議に任ぜられ、その後、勘解由長官・右兵衛督を兼任した。寛平9年(897年)7月従四位上になり、延喜4年(904年)正四位下に昇進し、延喜8年(908年)2月従三位中納言となった。延喜9年(909年)4月に民部卿を兼ねた。延喜14年(914年)8月には民部卿のまま大納言になる。延喜16年(916年)3月、正三位に昇進し、その機会に父融の遺産だった河原院を宇多法皇に献上した。翌年の延喜17年(917年)10月には宇多法皇がその河原院で昇の七十の賀宴を催した。延喜18年(918年)6月29日、71歳で薨去した。『新勅撰和歌集』『後撰和歌集』に各1首入集している。  10世紀初頭、武蔵権介として武蔵国に下向し、任期満了後は足立郡箕田郷に土着して私営田領主となった。延喜19年(919年)5月、時の武蔵守高向利春と対立し、官物を強奪して官舎に放火し、更に国府を襲撃して利春を攻めようと企てた。この事件は飛駅(緊急の公用文書の伝達に使われた駅)によって京に急報され、直ちに陣の座で評議に付されたが、どのように決着されたのか伝わっていない。この事件は、利春(後任者)と仕(前任者)との間に起こった、前後任国司の紛争と考えられている。