一般に仁明天皇第一源氏とされていて、彼の兄弟たちで源氏姓を賜り臣籍降下した者たちを仁明源氏と称す。 承和2年(835年)源朝臣の姓を賜った。嘉祥2年(849年)正月には無位から従四位下に直叙され、翌年の嘉祥3年正月に阿波守に任ぜられたが、同年4月に父仁明天皇とともに出家した。しかし間もなく還俗したらしく、仁寿2年(852年)正月に阿波守に再任され、次いで宮内卿に転じて美作守,備中守を兼任した。斉衡元年(854年)8月28日、24歳の若さで参議に任ぜられた。その後左兵衛督,左衛門督を歴任して貞観8年(866年)従三位となり、貞観12年中納言に昇進した。この間、参議として信濃,伊勢,備前,近江の守を兼任している。貞観14年大納言になり、更に貞観17年正三位に進み按察使・左近大将を兼ね、元慶6年(882年)右大臣に任命され、その年職封半減を上表して許された。大納言昇進後の陽成天皇,光孝天皇治世下においては上席の左大臣源融らを凌ぐ権勢を持ち、上卿として多くの官符を奉勅宣布している。仁和3年(887年)正二位に叙位されたが、仁和4年10月17日に58歳で薨去した。死後従一位を追贈された。 仁和年中、深紅色の衣服の着用が禁じられていたにも関わらず、右大臣の多は深紅の襖子を着用し、検非違使の小野道風に裂き取られたことがあったという。
|
貞観11年(869年)従五位下に叙爵、元慶2年(878年)図書頭に任ぜられる。のち、備中権介を経て、元慶9年(885年)三河守に任ぜられるなど、陽成朝から光孝朝にかけて地方官を務め、この間の元慶8年(884年)従五位上に昇叙されている。また時期は不明ながら、但馬守,丹波守,出雲守,信濃守なども歴任した。 宇多朝以降に従四位下に至る。
|
承和15年(848年)本康親王とともに清涼殿で元服。嘉祥2年(849年)従四位上に直叙され、翌嘉祥3年(850年)讃岐守に任ぜられる。 仁寿4年(854年)右馬頭に任ぜられて京官に復すが、のち斉衡3年(856年)但馬守、斉衡4年(857年)近江守、貞観3年(861年)伊予守、貞観6年(864年)播磨権守、貞観10年(868年)相模権守と地方官を歴任し、貞観13年(871年)には正四位下に昇叙された。 貞観15年(873年)宮内卿に任ぜられて京官に復すと、貞観19年(877年)左兵衛督兼帯を経て、元慶6年(882年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として宮内卿・左右兵衛督を兼帯し、仁和3年(887年)には従三位に叙されている。 宇多朝の寛平2年(890年)に薨去。享年56。
|
官位は正二位・右大臣。贈正一位。西三条を号す。 第一親等の皇族ながら、多くの兄弟とともに源姓を賜って臣籍降下。侍従,美作守,参議,中納言,大納言などを歴任する。醍醐朝において藤原時平と結託し菅原道真を失脚させた張本人の一人とされ、延喜元年(901年)に道真の後任の右大臣に任官。邸宅の場所から西三條右大臣と称された。 延喜13年(913年)、鷹狩に出た際に、不意に塹壕の泥沼の中に転落して溺死。遺体が上がらなかったことから、世人はこれを「道真の怨霊の仕業」として畏れ慄いたと伝わる。死後、正一位を追贈。後任の右大臣には彼や時平とは違い、道真に好意を持っていた藤原忠平が就任した。
|
美作国の押領使で左衛門尉。漆間氏は美作国の豪族で稲飯命の後裔とされる。時国の父を国弘あるいは親国とする系図がある。 長承2年(1133年)4月7日に息子が生まれ、名を勢至丸と名づけた。勢至丸というのは勢至菩薩のように賢い知恵を持った子供という意味で、学問と武芸に秀でていて、ことに弓を射ることにおいては格別のものがあった。ところが、保延7年(1141年)、明石源内武者定明が不意に夜討ちを仕掛けてきた。時国は、この時重傷を負ってしまった。勢至丸が定明に向かって矢を射つと、矢は定明の顔面に命中し、彼は這々の態で逃げ帰った。時国は瀕死の床の中で、決して仇を討たないようにと、勢至丸を諭し、その後間もなく亡くなった。 蓮生(出家した熊谷直実)は各地を行脚する中、建久4年(1193年)美作を訪れ、法然の父である漆間時国の旧宅、すなわち法然生誕の地に誕生寺を建立した。法然の父は地元の人に尊敬されるような人だったと言われている。
|
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とされ、法然上人,源空上人と称し、「元祖」とする。浄土真宗を開いたとされる親鸞は、「宗祖」もしくは「開祖」と呼ばれる。弟子である親鸞は、『正信念仏偈』,『高僧和讃』などにおいて、法然を本師源空や源空聖人と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念する。 その後比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳(異説には13歳)の時に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。 承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。 文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じる(大原問答)。建久9年(1198年)、『選択本願念仏集』を著した。 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下される。建永2年(承元元年・1207年)、法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった(承元の法難)。 讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や香川県まんのう町(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐を離れ、4年後の建暦元年(1211年)に京に入る。 建暦2年(1212年)1月25日に死去する。享年80(満78歳没)。なお、建暦2年1月23日に源智の願いに応じて、遺言書「一枚起請文」を記している。
|