嵯峨源氏

G009:渡辺 安  源 融 ― 渡辺 綱 ― 渡辺 安 ― 赤田 等 G010:赤田 等

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赤田 信 東政所 護

 信は上野国那和原の戦いで父の応を失い、幼少にして流浪の身となった。越後国赤田保の一族を頼り、越後赤田氏に養育された。成人した信は、貞治元年(1362)、越前に到って斯波義将に仕え、貞治6年、義将の推挙を受けて将軍足利義満の番衆となって京に移住した。
 そのころ、九州の地は懐良親王を頂点とする南朝方が勢力を誇り、対して将軍義満は今川了俊を九州探題に任じて九州に下した。このとき、信も将軍の命を受けて了俊の麾下として豊後に下ることになった。
 信は了俊の嫡男・義範に従って豊後高崎城に入って籠城、南朝方の菊池氏と対峙した。菊池氏との戦いは熾烈をきわめ、翌年にいたるまで半年の間に百余度の合戦を行ったという。九州探題・了俊の活躍によって、九州南朝方は次第に勢力を失っていき、ついには肥後に逼塞するに至った。ところが、応永二年(1395)了俊は探題職を突然解任され、京へと帰っていった。
 了俊麾下にあった信だったが、豊後の大友氏と行動をともにすることが多く、大友氏と合戦に明け暮れるなかで大友氏麾下の国人衆らとも誼を通じて、信は豊後に地歩を築いていた。そして、了俊が召還されたのち九州に留め置かれた信は、大友親世に属するようになった。親世は信に対して、海部郡仲村細村七十町と真那井五十町の地頭職を与えた。

 渡辺氏は大友氏の家中にあって、さほど大きな存在ではなかったが、大友氏とは、きわめて密接な関係にあった。のちに大友氏が改易処分となり、大友義統が水戸に配流されたとき、その下向衆のなかに渡辺三右衛門護がいる。この三右衛門護は東政所渡辺氏と思われ、その他の渡辺諸家は武士を捨てて帰農したと伝えられている。
赤田 隆 赤田虎之介

 隼人正隆は、永正年間(1504~20)に一族,家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き、小さいながらも犬上郡の一角に勢力を張った。
 隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏に従い、江南の佐々木六角氏との戦いに身をおいた。その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれていた。そして、61歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555)に世を去った。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると堅の子・虎之介は、赤田氏再興を図って西軍に属して力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり渡辺氏の再興は頓挫した。その後、野に下った虎之介は、家の再興を願って藤淵に身を投じ、龍神になったと伝えられている。
 いまも赤田氏の故地である犬上郡の曽我・八町などには、村岸,成宮,田部,藤野氏など赤田氏の一族を称する家が繁栄している。