<神皇系氏族>天神系

OC04:河野親経  物部大新河 ― 越智益躬 ― 河野為時 ― 河野親経 ― 河野通久 OC06:河野通久

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河野通久 河野通時

 承久の乱において一族のほとんどが朝廷方についたが、通久のみは母方の縁で鎌倉幕府方についた。乱の終結後に河野氏当主になるが、通久を当主とする惣領家と別の兄である通広や配流後に赦免を受けた通政の遺児らわずかな庶流しか残らず河野氏は大きな打撃を受けた。
 通久は戦功によって幕府から阿波国富田荘の地頭職を与えられたが、通久の望みを入れて貞応2年(1223年)に伊予国久米郡石井郷の地頭職との交換が認められた。また、源頼家の遺児である竹御所の近臣として仕え、彼女が死去した時に出家して葬儀に参列したともいわれる。
 嫡男に通時がいたが、通久の側室と密懐(密通)の疑いを持たれて義絶したため、その弟である通継を後継者として文永4年(1267年)に惣領の地位を譲った(ただし、密懐の話は通時・通継間の訴訟において双方が相手の密懐を主張しており、実際の廃嫡理由は別にあった可能性もある)。

 嘉禎3年(1237年)に父から河野氏の本拠地である伊予国石井郷の地頭職を譲られる。ところが、通時が通久の妻と密懐したとする疑いを持たれて義絶をされてしまう。ただし、通時の実際の義絶の理由は不明である。
 弓の達人として知られる。鎌倉の由比ガ浜で開かれた新年の御弓始の射手や宗尊親王の将軍就任に伴う御弓始に射手として登場する。
 通久の通時に対する義絶は最終的には解かれなかったらしく、文永4年(1267年)になって通久は通継に所領を譲る譲状を作成して家督を継がせた。これに対して通時はこの措置が不当であると鎌倉幕府に訴え、また通久の妻と密懐していたのは通継であるとも主張した。幕府の働きかけで文永5年7月25日(1268年9月3日)になって和与が結ばれた。ところが、通時も不満は収まらず、通時と通継から家督を譲られた通有の間で訴訟が再開された。そのため、文永9年12月26日(1273年1月16日)に幕府から裁許が下され、文永5年の和与を踏襲した内容の裁許状が作成され、訴訟は終結した。
 訴訟の終結の背景として、モンゴル帝国による日本への侵攻の可能性が高まったことで、河野氏にも動員を含めた御家人役が課せられる可能性が濃厚となったことで、通時・通有の対立を緩和させ、両者を和解に向かわせたと考えられる。そして、実際に元寇が起こると、通時は通有の下で九州に派遣されることになった。そして、弘安の役において、通時は通有とともに船を率いて敵船に乗り込み、船に火を放つなどの奮戦ぶりを見せるが重傷を負い、船中にて没したとされる。

河野通有 河野通忠

 伊予国風早郡善応寺の双子山城に勢力を置き、国内の水軍を束ねて伊予国の海上警備の任に当たっていた。
 元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。
 弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
 この不退転の意気込みは「河野の後築地」と呼ばれ、九州諸将も通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。通有は志賀島の戦いにおいて伯父の通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
 恩賞として肥前国神崎荘小崎郷や伊予国山崎荘を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し河野氏中興の祖とも呼ばれる。
 河野氏の系譜では応長元年(1311年)に死去したとされるが、それから10年経た元応3年(元亨元年・1321年)に六波羅探題である大仏維貞から土居彦九郎とともに伊予の海上警備を命じられている説があり、この頃にはまだ健在であった可能性が高い。また、通有の家督も嫡男の八郎通忠ではなく弟の九郎通盛に継承しているだけでなく、通盛の生母である河野通久の娘が強引に家督継承を図った痕跡が見られることから、元亨年間に通有が没し、その後通久の娘が未亡人の立場を利用して通盛を後継者に立て、それを巡って河野氏内部で内紛が生じたと推測する説もある。

 弘安4年(1281年)の弘安の役では、14歳で父とともに従軍して奮戦する。通有父子と戦った竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には「嫡男河野の八郎」として登場している。後に風早郡河野郷柚木谷を領有した。
 だが、通有の没後、河野氏の家督は異母弟である九郎通盛が継いでいる。通盛系を正統とする河野氏の系譜『築山本河野家譜』では通盛の生母(河野通久の娘)が通忠を斥けて通盛を当主にして河野氏を繁栄させた筋立てが取られており、『蒙古襲来絵詞』では通有の嫡男として描かれている通忠が、『築山本河野家譜』では家督を狙って河野家の乱す存在として描かれている。これは通有の没後に河野氏で家督を巡る内紛が発生し、その結果として通忠が敗れて嫡流が通盛流に移ったことを示すと推測されている。
 また、通忠の子である通貞は越後国魚沼郡上田荘小栗山郷を領していたことが知られており、後世の越後河野氏がその子孫であったとみられる。

河野通盛 河野通義

 元亨年間に父が没すると、母の強い後押しで嫡男であった異母兄通忠を排して当主となる。その際に、一族内に内紛があったと推定され、通盛の求心力の低下の一因となる。
 元弘の乱の際には六波羅探題の命に応じて奮戦するが、一族のほとんどが討幕軍についてしまい、鎌倉も占領されてやむなく降伏して建長寺に入って出家し善慧と名乗った。後醍醐天皇は通盛の所領を没収し一族の得能通綱を河野氏惣領とし、同じく一族の土居通増を重用した。
 その後、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻す(延元の乱)とこれに呼応し、建武3年(1336年)5月に尊氏が九州から京都を目指して東上するとこれに合流し、尊氏が京都に入って室町幕府が事実上成立すると、対馬守及び伊予守護職に任じられた。通盛が尊氏へ加勢した目的は、惣領の地位と承久の乱・元弘の乱で失った河野氏所領の回復があったとみられる。伊予に帰国した通盛は伊予国に帰国後、尊氏の命で四国に入っていた細川皇海と協力して、大舘氏明・四条有資・忽那義範・土居通重ら南朝方と戦った。その後、北朝方の軍事体制の強化の観点から伊予守護職は足利氏一族の岩松頼有・細川頼春に交替させられるが、貞和6年/正平5年(1350年)に入ると、足利尊氏・足利直義双方から伊予守護職に任じられた。当時、室町幕府は観応の擾乱によって分裂状態にあって互いに通盛の取り込みを図ったものとみられるが、通盛は最初は中立的姿勢を見せたものの最終的には尊氏方について、直義方・南朝方双方と戦って勢力を伸ばして河野氏再興を果たした。
 その後、擾乱が収まると細川頼之(頼春の子)が伊予守護職に任じられたが、康安2年/正平17年(貞治元年・1362年)に康安の政変で頼之の従兄弟である細川清氏が失脚すると、頼之は幕命を奉じて通盛に清氏討伐を命じるとともに伊予守護職を通盛に譲った。これは頼之が通盛に対して伊予守護職と引換に清氏討伐に協力するように求めたものであったが、四国における細川氏の勢力拡大を警戒する通盛は頼之と清氏の共倒れを目論んでこれを黙殺し家督を息子の通朝に譲り、通盛自身はかつての本拠地であった風早郡河野郡の土居館を善応寺に改めて隠居生活を送った。だが、細川頼之と細川清氏の戦いは早々と頼之の勝利に終わり、通盛の裏切りに激怒した頼之は翌貞治3年/正平18年(1364年)に幕命を得て河野氏討伐に乗り出す。11月6日、世田山城で細川軍に包囲された通朝が戦死し、その20日後にはかねてから病気であった通盛も病死してしまう。
 勢いを得た細川頼之は伊予を制圧して、河野氏当主である徳王丸(通朝の子、後の河野通堯)を伊予から追放すると、再び伊予守護職を獲得して「四国管領」を自称するようになる。一方、通盛が再興した河野氏は晩年の判断の誤りから一転して再び存亡の危機に陥ることになった。

康暦元年/天授5年(1379年)、室町幕府の命を受けて細川頼之討伐に乗り出した父・通堯が却って頼之に攻め滅ぼされたために11歳で家督を継承、翌年には将軍足利義満によって伊予守護職に任じられた。後に幕府と頼之は和睦するが、守護職は亀王丸(通義)に安堵された。至徳3年/元中3年(1386年)、元服して通能と名乗り、その後「通義」と字を改めた。嘉慶2年/元中5年(1388年)には伊予守に任ぜられている。
 ところが、応永元年(1394年)8月になって京都において突如病に倒れる。通義の室は懐妊中であったために、弟の通之に対して生まれた子が男子であればその子が16歳に達した時に後を継がせることを条件に家督を譲り、その年のうちに26歳で没した。生まれた子は男子であり、通之は後になって約束通りにその子(通久)に家督を譲ったものの、通之の子供たちがこれに反発し、通義の子孫である河野氏宗家と通之の子孫である庶流の予州家の対立の原因となった。

河野通久(持通) 河野教通

 父の河野通義は早世しており、河野氏の家督は叔父に当たる通之が継いでいたが、後に譲られて当主となった。しかし、通久の相続に不満を持っていた通之の子通元と対立し、河野氏の家督をめぐる内紛が始まった。この争いは両者の死後も続き、応仁の乱以降まで続くこととなる。
 豊後国守護の大友氏内で内紛が発生すると、幕府から反幕府方の大友持直らの追討を命じられ九州に出兵するが、永享7年(1435年)、豊後姫岳の戦いで持直に敗れて討死した。
 河野氏の家督は子の教通が継いだが、惣領の座を狙う通元や、その嫡子通春と争っている。

 永享7年(1435年)、父通久が戦死したため、家督を継ぐ。永享11年(1439年)、将軍義教の命を受け永享の乱・大和永享の乱に出陣、嘉吉元年(1441年)に義教が赤松満祐に暗殺されると(嘉吉の乱)、満祐討伐のため播磨に遠征した。同年中には「通直」に改名している。
 しかし、文安3年(1449年)に守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に交替させられるも、幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返した。教通を守護から解任した幕府が教通を再起を助けると言う矛盾した方針は、教通を支持する足利義政・畠山持国と通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立があったとみられている。
 勝元が管領に在任中の享徳2年(1453年)に守護職を再度通春に替えられるが、実は勝元が管領の職権を利用して御教書・奉書が偽造した上での任命であり、義政に叱責された勝元が辞意を表明するものの、最終的に慰留されて守護の交替が認められた。
 その後、享徳4年(1455年)には勝元に、長禄3年(1459年)に通春に戻され、教通は守護職奪還のため通春と争った。ところが、勝元と通春が対立して勝元が一族の細川賢氏を伊予守護に任命すると、大内教弘・政弘父子が通春を支持して、細川・大内両軍が伊予に侵攻したため、どちらにも与し得ない教通は蚊帳の外に置かれる形になった。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友であった通春は西軍の一員として上洛した。教通は当初は静観していたものの、西軍が通春を伊予守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍について通春に対抗している。
 文明5年(1473年)に勝元が亡くなった後の伊予守護に任命され、文明11年(1479年)には阿波守護・細川成之の次男・義春が伊予に攻め寄せてきたが、通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退した。
 文明14年(1482年)に通春が没して子の通篤と争ったが、伊予の主導権を掌握して予州家を圧倒した。後に出家し道治、道基と改名した。
 明応9年(1500年)に湯築城で没し、子の通宣が跡を継いだ。

河野通直 河野通宣

 河野通宣の嫡男で永正16年(1519年)、父の死去にともない家督を継いだ。天文9年(1540年)には室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継者に迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・通存(河野通春の孫)と家督継承問題で争ったため、通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。なお、その後天文末期には通政の弟である通宣とも家督を巡って争い、最終的には村上通康にも見捨てられる形で失脚したとする見方もある。
 近年の研究において通康と当主の座を争い、従来予州家当主と言われてきた通政(後の晴通)及びその弟である通宣はともに通直の実子である可能性が高いことが証明されつつある。
 また、来島騒動と呼ばれるこの争いの背景には単なる家督相続争いではなく、大内氏,大友氏,一条氏,尼子氏,安芸武田氏などが絡んだ当時の瀬戸内での権力闘争が河野家内部での外交方針の対立という形で投影されたものと言える。

 天文12年(1543年)に当主であった義兄の河野通政が早世したため、家督を継ぐこととなった。しかし若年であったため、父・通直の後見を受けることとなる。
 通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条房基の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。更に成長した通宣は亡兄・通政と同様に父・通直と対立し、それに乗じて天文22年(1553年)に大野利直が、翌年には和田通興が反乱を起こした。これらの反乱は重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
 しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。足利義輝に仕えていた梅仙軒霊超が永禄5年(1562年)頃に通宣に充てた書状の内容からは通宣が中風にかかっていたことが判明する。
 嗣子が無かったため、永禄11年(1568年)に家督を一族の河野牛福(後の伊予守通直)に譲って隠居し、天正9年(1581年)に死去した。ただし、近年の研究によると『高野山上蔵院文書』中にある「河野家御過去帳」における記述よりその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる。

河野通直(伊予守) 河野通軌

 村上通康もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。
 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
 通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
 通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ。
 これまで通直の実父は通吉と言われてきたが、実母にあたる天遊永寿(宍戸隆家の娘)についての検証から、村上通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする説がある。この説に拠れば、通直は毛利元就の曾孫にあたることになる。この血縁関係もあり、四国攻め以前から通直政権は毛利氏、小早川氏の強い影響力により支えられていたとされ、史料も確認されつつある。

 豊臣氏によって大名としての河野氏が、養父通直の代で滅ぼされ、これに不満を持つ旧臣らによる文禄の役に赴く豊臣秀吉の暗殺未遂事件に関わったとされるが、真偽は不明である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、支援者である毛利氏に同調して西軍に与し、安芸国より毛利輝元の家臣・宍戸景好(宍戸景世・河野通軌と同一人物説あり)や桂元綱および同じく毛利氏に庇護されていた浪人・村上武吉,村上元吉,因島村上吉忠,曽根景房らの諸将と松山沖の興居島を経て9月17日に伊予国三津浜に上陸、河野家の旧領回復を目指して兵2500を率いて攻め入った。
 伊予では平岡直房ら一部の旧河野家臣もこれに同調して蜂起した。松前城(正木城)主の加藤嘉明は国を空けており、兵数的にも手薄であった。侵攻軍は豊臣秀頼の朱印状を示して開城を迫ったが、嘉明の老臣の佃十成らは返答の引き延ばしを行った。その夜、楽観していた侵攻軍に対し、佃十成や足立重信らが兵200を率いて三津で夜襲と火攻めを敢行、村上元吉、曽根景房らが討たれた(三津浜夜襲)。
 河野軍(現地蜂起勢も含む)は久米如来寺など数か所の城砦に立て籠もるが、それぞれ加藤軍の攻撃を受けた。如来寺の河野軍を平岡直房が指揮して反撃を加え、佃は負傷し黒田直次を討取るが、蜂起した一揆勢もことごとく鎮圧され、河野氏らは道後山に逃れた。その後、侵攻軍(毛利勢)は北方、すなわち毛利領が近い海岸本面へ撤退した。ただし加藤軍にも徹底追撃する兵の余裕はなく、23日の小戦闘が行われたその夜、両軍に関ヶ原の東軍勝利の知らせが届くと毛利勢は撤退した。
 河野氏の伊予国再興はならなかった。通軌は撤退後、毛利氏の家臣として仕え、山口で没したとされている。
 通軌と宍戸景好は同一人物とされている。また、宍戸景世(平岡通賢と同一人物説あり)が通軌であったともされる。「河野家譜築山本」では、通直の後に宍戸氏出身の人物が河野氏を継ぎ、通軌と名乗ったとされ、同書は後に通軌が周防国山口で死去したと記している。しかし、通軌と自称した人物の存在を証明するものは確認されていない。

河野通之
 応永元年(1394年)に兄の通義が26歳で急死したため、伊予国守護職を継承する。その時、通義の室は懐妊しており、誕生した子が男子であった場合には16歳になったらその子に家督を譲ることを条件としていた。応永の乱では堺に立て籠もる大内義弘を攻めて功を上げた。通義の室が産んだ子は男子であり、その子・通久が16歳になった応永16年(1409年)に通之は家督を通久に譲って隠居した。だが、通之の実子である通元はこれに納得せず、通之が没すると、予州家は河野氏の家督を巡って宗家と争うようになった。