美濃池田郡本郷城に生まれる。幼少時に崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の下で学んでいた。 大永5年(1525年)、父と5人の兄達全員が牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して塩塵と叔父・稲葉忠通の後見の下に家督と曽根城を継いだ。 天文末年頃、 不住庵梅雪から斎藤道三へ茶の座敷置き合わせ法の『数奇厳之図』を伝授され、これが道三から良通に伝授され、さらに良通から志野省巴に相伝されたという、茶の湯の系統が明らかになっている。 はじめ美濃を治めた斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の1人として活躍する。その後、義龍,龍興に仕えるが、永禄6年(1563年)に他の西美濃三人衆と共に龍興に諫言するものの聞き入れられず、翌年には竹中重治,安藤守就と稲葉山城占拠し、永禄10年(1567)8月1日に三人衆と連盟で斉藤氏の配下から離脱し、織田信長に組している。永禄11年(1568年)、信長の上洛戦に参加し、翌年8月27日より開始された北畠具教・北畠具房父子が籠城する大河内城攻撃には攻囲陣の南方を守備している。元亀元年(1570年)5月、信長が朝倉義景討伐のために越前国へ向かうと、稲葉父子3人と斎藤利三は守山城に入り江州路の警固に当たった。この際、一揆勢が守山の南から火を放って攻め始めたが、良通らが一揆勢の切り崩しにかかり、これを破った。 天正2年(1574年)、入道して一鉄と号している。その後も長篠の戦いなど多くの戦に参加し、武功を挙げた。天正7年(1579年)、家督と曽根城を嫡子の貞通に譲り、美濃清水城に移る。天正8年(1580年)、安藤守就が北方城を追われ武儀郡谷口に蟄居した後、信長は一鉄に安藤氏の旧領を与えた。この時点で一鉄の勢力は西濃最大のものとなる。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変では、一鉄は美濃国人衆に呼びかけて、岐阜城に甥の斎藤利堯を擁立し、光秀に対して独立を保とうと画策する。一方、かつて信長に追放された安藤守就の一族が、復権を目指して光秀と手を組んだため、これと交戦し守就等を敗死させた。信長の死で統制を失った美濃では諸将の衝突が頻発することになった。 その後は羽柴秀吉に従うようになり、天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去した。 なお、外孫の福(春日局)を稲葉家に引取り、福は成人するまで美濃清水城で過ごしたとみられる。
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はじめ父と共に美濃国斎藤氏に仕えていたが、永禄10年(1567年)に織田信長の侵攻軍の前に降伏した。その後は父と共に、信長の命に従って各地を転戦した。天正7年(1579年)に家督を譲られ、美濃曽根城主となる。 天正10年(1582年)の4月5日に信濃国飯山城を守備している際に、貞通は芋川親正の煽動した一揆によって包囲され窮地に陥るが、すぐに援軍が到着し、森長可が長沼城方面で一揆勢を破ったために包囲が解け、事なきを得た。しかしこの不手際があってか、貞通は飯山城守備の任を解かれ、信長の本陣の置かれている諏訪へと召還され、飯山城代には長可家臣の林為忠が置かれた。本能寺の変では京都にいたが、信長が殺されたことを知ると、急いで本国に逃走した。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与したが、当時の美濃は信長の三男・織田信孝の支配下にあったため、旧主の息子に刃向かう迷いがあった。そこで貞通は長男・典通に家督を譲っている。 同年、秀吉に従い伊勢国峯城を攻撃したが、この帰路に土民の一揆に襲われて、壊滅の危機に瀕した。自ら殿軍を務めて3度にわたり一揆勢を追い散らし、一揆勢を退かした。天正15年(1587年)の九州征伐に典通と共に出陣した。典通が秀吉の機嫌を損ねて蟄居を命じられたため、再び家督の座についた。 天正16年(1588年)には郡上八幡城に移り、郡上八幡城の大改修を行った。同年4月14日、後陽成天皇の聚楽第への行幸のときは供奉に列した。この年に羽柴の苗字と豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)3月の小田原征伐には1,200余の兵を率いて参陣し、織田信雄の指揮下で韮山城を攻めている。文禄元年(1592年)からの文禄の役においては諸将と共に朝鮮半島に渡海して転戦した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張国犬山城を守備したが、後に東軍に寝返り、同じ東軍の遠藤慶隆、金森可重らが攻撃している郡上八幡城の救援に向かう(八幡城の合戦)。その後は長島城の守備に回り、本戦後は加藤貞泰と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げたため、美濃国郡上藩4万石から豊後国海部郡,大野郡,大分郡の3郡内に領地を持つ5万60石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。 慶長8年(1603年)9月3日、57歳で死去した。
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