<神皇系氏族>天神系

OC08:稲葉通貞

 物部大新河 ― 越智益躬 ― 河野為時 ― 河野親経 ― 河野通久 ― 稲葉通貞 ― 稲葉重通 OC09:稲葉重通

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稲葉重通 稲葉道通

 はじめ織田信長に馬廻として仕え、1万5000石(もしくは2万3000石)を給されたという。本能寺の変で信長が死去した後、父・良通と共に一揆に囲まれた信濃国飯山城の救出に赴いている。以後、父や弟らと同じく羽柴秀吉の家臣となり馬廻を務めた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参加し、その功績で河内国内に知行を加増された。天正13年(1585年)7月、兵庫頭に叙任され、同年8月には一時的ながら姉小路氏滅亡後の飛騨国の一国支配を任されている。天正15年(1587年)、九州平定に従軍する。
 天正16年(1588年)に父が死去するが、重通は長子といえど庶子であったため、家督は異母弟の貞通が継ぐこととなり、重通は美濃国清水に別に1万2000石を与えられて大名となった。
 天正18年(1590年)、小田原征伐にも参加する。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では肥前国名護屋城に在陣した。秀吉の晩年には御伽衆となる。慶長3年(1598年)10月3日に死去。跡を子・通重が継いだ。

 文禄2年(1593年)、長兄の牧村利貞(牧村政倫の養子)が死去した後、その子である牛之助が幼少だったため、家督を継いで2万300石を領する。文禄3年(1594年)の伏見城工事で功績を挙げたことから、豊臣秀吉より5,700石の加増と、豊臣姓を下賜された。このとき叙任もされている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、分部光嘉や富田信高らと共に西軍方の九鬼嘉隆と戦った。戦後、その功績により2万石を加増されて伊勢田丸に移されて、4万5,700石を領した。しかし、甥の牛之助が15歳に成長しても家督を譲ろうとせず、次男の紀通に譲ろうとしたため、牛之助が不満を抱いた。このため、道通は刺客を送って牛之助を殺害した。
 慶長12年(1607年)12月12日、伏見で死去。享年38。牛之助暗殺から半年足らずで死去したため、その死は牛之助の呪いともいわれた。跡を紀通が継いだ。後に紀通も凶行を幕府に責められて自害し改易となった。

稲葉紀通 稲葉正成

 慶長12年(1607年)、父の死去により家督を継ぎ田丸藩主となる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣した。元和2年(1616年)、摂津中島4万5700石へ移封される。寛永元年(1624年)には丹波福知山へ移封された。しかし福知山では、狩りの獲物が得られなかったとして近隣の村民60人を殺害するなど幕閣にも狂気の行いが知られるようになった。さらに福知山城の空堀に水を満たすなど様々な不調法があったとして、慶安元年(1648年)8月18日には江戸に参府して弁明を行うよう命ずる奉書が出された。幕府は近隣大名に動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に福知山城中にて自殺。享年46。福知山藩稲葉家も改易となった。
 藩翰譜では、移封直後に殺害した家臣2名の家族がこれを恨みに思い、謀叛を訴え出たことや隣国である丹後国宮津藩主京極高広との鰤をめぐる争いなどを記している。それに拠れば1648年、藩領が内陸である福知山藩が、海がある丹後宮津藩に対して寒鰤100匹をねだったが、これを幕府への賄賂に使われることを恐れた京極側は鰤の頭を切り落としたものを進呈した。この非礼に激怒した福知山藩側が藩内を通行する宮津藩の領民を次々首をはねて殺害するという報復を行った。藩翰譜では紀通自身が京極家の飛脚を狙撃しようとし、誤って他家の飛脚を殺害したことが謀叛騒ぎの原因であったという説を記している。
 なお、嫡男の稲葉大助は8月25日に稲葉正則に預けられた。翌年3月6日に許され、稲葉家の財産を受け継いだが、慶安4年(1651年)に疱瘡で4歳で没し家名断絶となった。

 稲葉重通の婿養子となるが重通の娘に先立たれたため、重通は代わりに姪である福(後の春日局)を養女として正成に嫁がせた。正成は義父と共に豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣となり秀秋を補佐した。四国攻め,小田原征伐で活躍し、慶長の役では秀秋麾下として従軍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した。しかし、戦後に秀秋と対立し美濃に蟄居する。
 慶長7年(1602年)、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると浪人となる。同9年(1604年)7月、京都所司代板倉勝重によって家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母の募集が行われ、これに妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。その経緯については諸説あるが、正成が愛人を作ったと知った福が激怒して家を去ったとする説、勝手に乳母に応募したことに激怒した正成が離縁した説、乳母に採用されたことを知って「女房の御蔭で出世した」といわれるのを恥じて離縁状を出した説、福に江戸幕府から直接乳母に召されるという話を正成が受けて、福も乳母として幕府に忠勤すれば夫の仕官や立身出世に繋がるのではと考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したという説、更にこれらの出来事は全て口実で正成を家康に仕官させるために正成と福が示し合わせて離縁したとする説などがある。なお、稲葉家は本来の嫡男であった正次ではなく、福の産んだ子であるという理由で正勝が継いでおり、少なくとも離縁後も福と稲葉家の繋がりが深いことは事実である。
 後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕える。慶長12年(1607年)には旧領の美濃国内に1万石の領地を与えられ大名に列した(十七条藩)後、家康の孫・松平忠昌の家老、清崎城主となる。大坂夏の陣では忠昌を補佐して戦功を挙げて、元和4年(1618年)に越後糸魚川2万石の所領を与えられ、忠昌の附家老となった。寛永元年(1624年)、忠昌の越前国福井藩相続に従わず、勝手に出奔・浪人し、幕府により子・正勝の領内で蟄居を命ぜられる。寛永4年(1627年)、独立した大名として再び召し出され下野真岡藩2万石に封じられる。寛永5年(1628年)、死去。享年58。正勝の子孫は山城国淀藩主として、外孫の堀田正盛の子孫は下総国佐倉藩主として明治維新まで続いた。 

稲葉正勝 稲葉正則

 母が3代将軍徳川家光の乳母となったことから、乳兄弟として幼少時より家光に小姓として仕え、将来を期待された。
 元和7年(1621年)、書院番頭に任じられる。元和9年(1623年)に年寄衆(老中)に任じられ、寛永元年(1624年)には常陸真壁郡に5000石を加増され、それまでの所領と合わせて柿岡藩1万石を領する大名に列する。同時に従五位下・丹後守に叙任した。寛永元年(1624年)、越前福井藩の松平忠直の改易および松平忠昌の転封に際しての行動により、幕府より懲罰を受けた父の正成を自領内にて預かる。名目上の扱いは謹慎処分であったが、正成は寛永4年(1627年)2月には正勝とは別に下野真岡藩2万石として復帰した。その後も父の遺領を相続して下野真岡藩4万石となるなど加増を重ね、転封し相模小田原藩8万5千石となる。寛永9年(1632年)には、肥後国熊本藩主・加藤忠広の改易に際して熊本城接収の副使を務めている。
 しかし、寛永10年(1633年)の夏頃から吐血するなど体調を著しく悪化させ、翌寛永11年(1634年)に死去した。享年38。次男・正則が跡を継いだが未だ幼少であったため、母方の伯父の斎藤利宗、次いで甥の堀田正盛が後見人となった。
 死の直前、徳川忠長に仕えていた弟・正利が忠長の改易に連座して配流処分にされることを知ると、死の床に伏していた正勝は最期の気力を振り絞って幕府に懇願し、縁戚に当たる細川忠利の熊本藩への流刑を求め、更に遺言で忠利にあてて50貫目を託し、正利が赦免されるまでの保護を依頼している。

 母は早世したため、祖母・春日局に養育されていたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続した。幼少のため大伯父(春日局の兄)にあたる斎藤利宗の補佐を受けた。寛永15年(1638年)に元服、利宗の補佐は終わったが、以後は父方の従兄に当たる堀田正盛が後見人を務めた。
 春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年)9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱の文治政治を担うことになる。
 寛文6年(1666年)に老中首座に昇格、同年に他の老中と共に諸国山川掟を発令した。同年に酒井忠清が大老に就任、以後は酒井忠清,久世広之,土屋数直,板倉重矩らと共に政治を取り仕切り、全国の公共事業・流通政策を鉄牛や河村瑞賢を通して展開していった。狭山藩主北条氏治の相続問題にも介入している。
 延宝8年(1680年)に1万5000石を加増、合わせて大政参与に任命された。同年5月8日に家綱が亡くなり、家綱の弟・綱吉が5代将軍に就任して忠清が12月9日に大老を解任されると、翌天和元年(1681年)3月から越後騒動の再審を開始、7月8日に紅葉山の家綱の仏殿建立の奉行を務め、12月8日に大政参与を退いた。天和3年(1683年)閏5月27日に隠居し家督を長男の正往に譲った。
 元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。遺領は正往が小田原藩10万2000石を相続、残りは他の息子たちに旗本領として分知された。
 正室の父・毛利秀元から茶の湯を学び、学問,宗教を通して林鵞峰,吉川惟足,鉄牛道機らと交流を深め万治元年に隠元隆琦と対面してから黄檗宗へ傾倒、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行った。また、長崎と江戸を取り持つ役目も負い、オランダ商館館長や随行員との物品の交流、藩の医者をオランダ人医者に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた。

稲葉正利 春日局(斎藤 福)

 慶長8年(1603年)、岡山藩主・小早川秀秋に仕えた稲葉正成と、継室の(後の春日局)の間に生まれる。前年に小早川家は無嗣改易となっており、正利の誕生時は父は浪人であった。慶長9年(1604年)、母は徳川家光の乳母に採用され父母は離縁するが、後に父も徳川家康に召し出される。正利は徳川家光の弟・忠長に付けられた。
 主君・忠長が寛永9年(1632年)10月、不行跡のため兄・家光により除封、上野国高崎へ流され、家臣も連座として処分を受けることとなった。翌10年(1633年)12月に忠長が自害させられたのち、寛永11年(1634年)3月、正利は身柄を高崎から肥後国へと移され、細川忠利の預かりとされた。なお、配流先として肥後国が選ばれたことは、母・春日局と兄・正勝が細川忠利の承諾を得たことによるが、家光も内々には了解していた模様である。他にも忠利は春日局と縁戚関係にあり、正勝とは親友同士ということもあった。
 正利は、用人1人,小姓1人,武家奉公人6人及び世話係として商人の惣兵衛を伴って肥後へ移された。当初は菊池郡隈府に置かれて過ごしたが、寛永12年(1635年)春、肥後国内を自由に歩けるよう要望し断わられている。この頃から様々な不行跡を働き、度々忠利より諌められたが、春日局らとの関係上、丁重に扱われた。寛永14年(1637年)春に、独断で熊本城下へ出かけており、以後は熊本に置かれることとなった。その後も奇行は続いたため、正利が自害すべきことを春日局が示唆するまでとなった。忠利の死後も熊本藩は正利に度々煩わされている。
 正利は熊本へ移ってまもなく、身の周りの世話をする女性を所望し、おいわが長崎より呼ばれた。領内の女では正利が処分を解かれて帰る際など、出国の可否で問題を生じかねないため、幕府直轄地の長崎で探すこととしたのである。おいわは正利の気に入るところとなり召し仕えたが、後に暇を出され、惣兵衛の執成しも叶わず熊本の遠い親類に身を寄せた。
 その後も、正利は江戸幕府から赦免されることなく約40年にわたって預人のまま続き、延宝4年(1676年)に死去した。 

 斎藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門だった。福の実家の斎藤家もこの一門である。守護代斎藤氏が滅びると、一門であった斎藤家は明智氏に仕官した。福は、父・斎藤利三の所領のあった丹波国の黒井城下館で生まれる。福は城主の姫として、幼少期をすごした。
本能寺の変後、福は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉正成の後妻となる。
 福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。
 家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・お江与の方の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)のお江与の没後からは、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万や、お蘭(お楽の方),お振,お夏,お玉,お里佐,おまさなどを次々と奥入りさせた。また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、大奥を構造的に整備した。将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
 寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。しかし無位無官の武家の娘という身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿・三条西家の娘となり参内する資格を得、三条西藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日」の名号、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる。
 寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫・正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。
 寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。
   辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」
 墓所は東京都文京区の麟祥院,神奈川県小田原市の紹太寺,京都市の金戒光明寺および妙心寺の塔頭麟祥院。
 死去の直前に当たる9月10日、家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。この上意は新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。以後正則,正俊はそれぞれ幕閣に登用され、老中・大老に就任、幕政に参加する。