元弘3年(1333年)閏2月11日、鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である得能通綱・忽那重清・祝安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した長門探題北条時直を石井浜で敗走させた。 同年3月1日には、喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃し10日余りで陥落させ、3月12日、再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り長門まで撤退させた。また、5月には讃岐まで遠征し幕府方勢力を破っている。 建武政権では、従五位下に叙爵され、伊予権介、続いて備中守に任官。南北朝の争乱が起こると、通増は通綱と共に南朝側に加わり新田義貞に属し、建武3年2月10日、摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した。また、同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破る。5月25日の湊川の戦いにも従軍している。 10月10日、南朝勢力再建のため北国へ赴く義貞に従い、越前へ向かうが、その途中、越前荒乳で斯波高経の襲撃に遭い、予想外の降雪による寒波と兵糧の不足する中、高経の攻撃を受け、通増は一族と共に戦死した。
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