元亀元年(1570年)より織田氏の家臣・羽柴秀吉に仕えた。天正8年(1580年)、父の死により遺領を相続。各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となった。 天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いの際に、秀吉が織田信雄配下・不破広綱の竹ヶ鼻城を水攻めによって落城させると、直末が城主として入った。天正13年(1585年)には田中吉政,中村一氏,堀尾吉晴,山内一豊らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国大垣城に3万石を領した。さらに天正17年(1589年)には軽海西城に転封となり、6万石に加増された。また、天正13年(1585年)には伊豆守に叙せられた。 天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した。『寛政重修諸家譜』によれば駿河国長久保村に葬られ、長泉町立尾尻公園に一柳直末公首塚が現存する。
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美濃国厚見郡に生まれる。兄・直末に従って武功をあらわし、天正10年(1582年)には備中宿毛塚城攻めで武名をあげた。天正18年(1590年)、小田原征伐で直末が戦死したため、その後を継いで豊臣秀吉に仕える。秀吉から尾張国黒田城を与えられ3万石を知行。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与する。池田輝政・浅野幸長らとともに河田木曽川渡河の戦いや岐阜城攻めに加わって功績を挙げたほか、大垣と佐和山の中間に位置する長松城の守備にあたった。このため、戦後に1万5000石の加増を受け、伊勢神戸に5万石の所領を与えられた。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功を挙げた。以後、徳川秀忠・家光の上洛や日光社参に供奉、寛永10年(1633年)には九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている。 寛永13年(1636年)6月1日、1万8000石余を加増の上、伊予国西条へ転封となる。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった。ただし同時に家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したため、直盛の所領は都合6万3000石余である。新たな封地である伊予は、父祖河野氏ゆかりの地であったが、直盛は任地に赴く途上の寛永13年(1636年)8月19日、病のために大坂にて没した。享年73。大坂上寺町の大仙寺に葬られた。また、伊勢神戸の龍光寺に髪塚がある。
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慶長14年(1609年)、丹後守に叙任。この年、徳川家康・徳川秀忠に拝謁。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では父と共に参戦している。以後、徳川秀忠や徳川家光の上洛・日光社参に供奉。寛永10年(1633年)には、九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を父や弟とともに命じられている。 寛永13年(1636年)8月19日に父の直盛が死去。同年11月24日に父の遺領のうち3万石を継承、伊予西条藩主となった。このとき、次弟の直家に2万3000石余(川之江藩→小野藩)、三弟の直頼に1万石(小松藩)を分与している。 藩主として、陣屋町(喜多浜町)の構築や加茂川の治水工事,新田開発などを行なって藩政の確立に尽くした。寛永17年(1640年)の讃岐高松藩の生駒高俊改易においては、松平定房や加藤泰興と共に高松城在番を務めた。 正保2年(1645年)に48歳で死去。
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慶長10年(1605年)7歳の時に駿府で徳川家康に、江戸で徳川秀忠に、それぞれ拝謁。以後、江戸で父の証人(人質)として暮らし、幕府から「旅資」を支給されている。以後、徳川秀忠の上洛や大坂の陣などに随行。 父の直盛は大坂の陣で徳川方に与して戦功を挙げた。このことが功績とされ、寛永13年(1636年)6月1日に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封されるが、このとき直家は加増分の中から磨国加東郡内5000石を分け与えられている。しかし同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重,直家,直頼)で分割されることとなった。直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた5000石と合わせ、播磨国加東郡、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし、小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが実現しなかった。 翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており、実質的に小野藩が成立した。 寛永19年(1642年)5月29日に死去、享年44。直家には娘しかいなかったため、死に臨んで小出吉親の次男・一柳直次を養子とし、娘と娶せて遺領を相続させようとした。当時は末期養子がまだ許されていなかったため、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内の1万石のみとなった。
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