<神皇系氏族>天神系

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一柳直頼 一柳直徳

 伊勢神戸に生まれる。大坂の陣では人質として江戸に留められた。元和4年(1618年)、徳川秀忠に初謁。徳川家光の上洛のたびごとに、父とともに随行している。寛永10年(1633年)には父や兄とともに、九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている。
 寛永13年(1636年)、西条に入封する途次に父が没し、遺領6万8600石が3人の子で分割された際に、直頼は1万石を相続。周布郡新屋敷村に陣屋(小松陣屋)を構え、小松藩を立藩した。小松の地名は、陣屋付近に背の低い松が群生していたことに由来するという。
 その後の藩政においては、小松陣屋町の構築や家臣団の編成、三嶋神社や仏心寺建立などを積極的に行なうなどして藩政の確立を目指した。
 正保2年(1645年)4月28日、江戸で死去。享年44。佛心寺に葬られた。跡を長男・直治が継いだ。 

 寛文6年(1666年)3月18日、第2代藩主・一柳直治の長男として小松に生まれる。母は側室の正寿院。
 延宝4年(1676年)、11歳で将軍徳川家綱に初謁。宝永2年(1705年)閏4月15日、父の隠居に伴い、40歳で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)4月、従五位下因幡守に叙任。同年9月には駿府加番となった。
 頼徳に男子はなく、初めは三弟の直堅を養嗣子とし、将軍への御目見得も済ませていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)4月に早世している。その後正徳4年(1714年)9月に甥の頼邦(次弟・一柳治良の長男)を養嗣子に迎えている。
 享保9年(1724年)10月4日、江戸にて死去、享年59。江戸品川の寿昌寺に葬られた。跡は養嗣子の頼邦が継いだ。
 詩歌に秀で、書家として諸侯随一とされ、多くの墨跡を遺した。その書は手本として将軍家に納められたという。 

一柳直紹

 文政5年(1822年)、小松藩主一族である旗本村越成芳(第5代藩主・一柳頼寿の六男)の二男として生まれ、叔父にあたる一柳寿重(頼寿の七男)の養子となった。天保3年(1832年)8月21日、従兄に当たる先代藩主の頼親が死去したため、末期養子として家督を相続した。 
 天保9年9月15日、将軍徳川家慶にお目見えした。同年12月16日、従五位下兵部少輔に叙任する。藩政では文教政策に尽くした。また、幕末の動乱の中で、頼紹は尊王派として三条実美や澤宣嘉らと親交を持った。
 慶応3年(1867年)11月5日、病気を理由に上洛の延期を朝廷に申し出る。慶応4年1月15日、重臣近藤十左衛門を上洛させて、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、病気を理由として藩主に代わり、嫡子頼明を上洛させた。藩論を尊王でまとめた頼紹は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争において新政府側に与し、藩兵を越後(北越戦争)や出羽山形方面に出動させた。
 明治2年(1869年)、戊辰戦争の功績として賞典金2000両を与えられる。同年6月24日、版籍奉還により藩知事となるが、直後の7月14日に東京で死去した。享年48。