<神皇系氏族>天神系

OC06:河野通久  物部大新河 ― 越智益躬 ― 河野為時 ― 河野親経 ― 河野通久 ― 林 通村 OC07:林 通村

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林 秀貞 山内一吉

 父・林通安と共に織田信秀に仕えた。政治手腕や外交と軍団まとめ役(統率)として信秀の信頼が大となり後に重臣となる。
 幼少の織田信長に那古野城が与えられた際に一番家老としてつけられた。2番家老は平手政秀であり、まさしく信長の後見役である。
 当時の織田家臣団同様に秀貞も信長の奇行には頭を痛めており、天文21年(1552年)に信秀が死去すると信長の弟である信行擁立を画策するようになる。弘治元年(1555年)には那古野城の留守居役に任ぜられた。
 1553年2月25日に2番家老の平手政秀が亡くなった後も秀貞の不安と不満は解消されなかったようで、弘治2年(1556年)に柴田勝家や弟・通具らとともに織田信行を擁立して挙兵するが稲生の戦いで敗北する。もっとも秀貞自身は稲生の戦いには参戦せずに静観をしていた。尚、稲生の戦いの前に林兄弟の不穏な動きを察知した信長は異母兄弟の織田信時と2人だけで那古野城を訪れ、これを好機とみた通具は「信長を襲って切腹させよう」と主張する。しかし秀貞は「三代報恩の主君に手はかけられない」と反対し制止させた。稲生の戦いの後、信長からは許されて勝家とともに宿老の立場に据え置かれた。
 信長に赦免された後はこれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。秀貞は軍人というよりは政治家であり、信長が発給した政治的文書には常に署名している。
 政治的には信長からかなり重きに置かれており、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、信長の重臣と義昭の重臣が起請文を交わした際には秀貞が1番に署名している。信長が開く茶会においても秀貞は他の重臣と共に招かれるのが常であり、天正7年(1579年)に安土城の天主が完成した際に信長は秀貞・村井貞勝の両名にだけ天主の見物を許している。柴田勝家,佐久間信盛,明智光秀,羽柴秀吉などに追い抜かれていくが、家老(宿老)筆頭としての地位を保っていた。
 天正8年(1580年)8月、信長から24年も過去の信行擁立の謀反の罪を問われて追放された。この追放劇に関しては理由が24年も前の事柄であるため余りにも難癖じみており、その真相については不明な点が多い。
 京都に居住し南部勝利(南部但馬守)と改名したり、安芸国に身を移したりして余生を過ごしたとされる。追放から2ヶ月後の10月15日に死去したと言われるが定かではない。現在も広島市内に墓石がある。弟・通具を描いた「林美作守像」の賛によれば、享年は68とされる。

 尾張国の戦国大名・織田信長の筆頭家老・林秀貞の三男として美濃国岐阜城下にて誕生した。初名は勝吉。
 父同様、織田信長に仕えるが、天正8年(1580年)8月18日、父・秀貞と共に信長によって追放される。山城国に籠居していたが、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀による本能寺の変によって信長が討たれると、播磨国姫路に赴いて織田家臣の山内一豊に仕えた。これは一豊とは旧知の間柄で、「互いにどちらか、先に領主と成った方に仕えよう」と約束をしていたためといわれる。一豊から偏諱を受け一吉と改める。また林伊賀守と称した。
 以後家臣として活躍し、天正13年(1585年)に近江国長浜城主となった山内一豊に従い近江に移る。天正18年7月(1590年8月)、豊臣秀吉の北条氏政征伐の時、江州長浜より出陣し、櫓を攻め取り功名を挙げる。同年、一豊が遠江国掛川移封に伴い、遠江で500石を与えられた。
 慶長5年(1600年)、陸奥国会津の上杉征伐には嫡子・勝久を出陣させ、自らは寺村重友と共に留守居役となる。慶長6年(1601年)、主君・一豊が土佐9万8000石に封じられると、「山内」の名字と土佐高岡郡仁井田・窪川両郷を与えられ、代官兼窪川初代家老職を命じられる。その後、窪川城を修築して城下町の基礎を作り、荒野を開拓させ新田開発に尽力した。慶長9年(1604年)、死去した。

林 通具

林 通政

 信長に仕えていたが、信長の行動に対して不満があり、天文23年1月24日(1554年2月25日)に村木砦の戦いに先立つ21日(22日)、兄・秀貞とともに信長の出陣に従わず、林の与力である荒子の前田与十郎(種定)の城へ退去した。
 その後、兄・秀貞や柴田勝家と共謀し、信長を廃してその弟・信行(信勝)を擁立しようと図る。それを伝え聞いた信長が異母弟・織田信時と2人だけで那古野城を訪れると、通具は好機到来とばかり信長を切腹させようと主張する。このときは秀貞が三代報恩の主君に手はかけられないと反対したため、信長をそのまま帰したが、2日後には信行側は信長に反旗を翻すことを明確にした。弘治2年8月24日(1556年9月27日)、秀貞と信行は那古野城と末森城を守り、通具と勝家は出陣して稲生の戦いが起こった。しかし、信行側は信長勢に破れ、勝家は負傷して敗走し、通具は討ち死にした。通具は信長方の黒田半平との激闘で黒田に重傷を負わせるも疲弊したところに信長が助太刀に入り、信長自らが通具の首級を挙げたという。
 名古屋市博物館には、慶長10年(1605年)林通治が長文の賛を記した肖像画が所蔵されている。

 織田家の家臣で林秀貞の子(林通忠の子で、娘婿とも)といわれる。美濃斎藤家の家臣・林駿河守通政の従甥にあたる。
 文治派の秀貞と違い武勇に秀でており、槍を得意としていたことから「槍林」との異名を持つ(武家事紀)とされる。織田信長からの信頼も厚かったといわれており、姉川の戦いや石山合戦など数々の戦に従軍した。
 天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆の戦いの中で、撤退中の織田軍に対し長島一向衆が奇襲をかけるという事態が起きると、信長の撤退を助けるべく殿軍を務め奮戦したが、敵の勢いに押されて討死した。

伊藤十蔵
 弘化5年(1846年)に破産した十蔵が萩へ単身赴任し、嘉永2年(1849年)に博文を萩に呼ぶ。家が貧しかったため、長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった。 

 

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