父の親清は子供ができず、このままでは再度河野家が絶えてしまう虞があった。そこで、親清の妻(親経の娘)が加護を得ようと、三島明神に参拝して祈願した直後に男子を身篭った。これが通清である。このことから、彼は神に「通」じた息子とされ、これより以後の河野氏全当主が代々「通」の通字を用いることの先例となったと伝えられる。また、三島明神はこの先河野家は16代続くと予言していたようである。実際、河野家は、通清以降晴通まで16代続いたといわれ、17代通宣からその力は衰退していったといわれるが、この16代の数字が、大山祇神社の中に鎮座する、17社、16皇子のことだといわれている。 治承4年(1180年)8月に源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、通清も挙兵して平維盛の目代を討ち、伊予を完全に支配圏に置いた。 しかし、治承5年(1181年)、平氏方の田口成良と沼賀西寂が伊予に攻め寄せて来ると、高縄山城に立て籠もって抵抗したが、味方から裏切り者が出て大敗し、最期は城から撃って出て壮烈な戦死を遂げた。
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治承4年(1180年)8月に源頼朝が反平氏の兵を挙げると、それに呼応し治承5年(1181年)に父・通清と共に本拠の伊予国風早郡高縄山城に拠って平維盛の目代を追放した。しかし伊予内外の平氏方の総攻撃を受け、通清は同城で討ち死にした。 その後、通信は高縄半島でゲリラ戦を展開し、進入していた備後国の沼賀西寂を倒し、阿波国の田口成直を喜多郡比志城で撃破して主導権を握った。文治元年(1185年)2月、源義経が平氏追討のため四国へ下ってくると、通信は軍船を率いて屋島へ赴き、不在中に田口教能の襲撃を受けるが、志度合戦で義経に軍船を献上して源氏方に加わった。壇ノ浦の戦いにも参加し通信の軍船が中堅となって活躍した。戦後は鎌倉幕府の御家人となり、伊予国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められた。文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。「吾妻鏡」によれば、この時期通信は陣中で食事のたび土器を用いたため、珍しいと話題になったとされ、同族大祝氏と同様、国造の末裔としての河野氏の斎戒の習慣を伝えている。頼朝の死後は、梶原景時の変にも加わっている。北条時政に気に入られてその娘を娶ったと伝えられている。 通信は承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇方についたため配流となり出家したと伝えられ、江刺郡稲瀬にある国見山極楽寺で貞応元年(1222年)に死去した。享年68。 墓所は現在も稲瀬町水越地区に聖塚として残る。孫にあたる一遍が全国を遊行した様子を描いた絵巻物である「一遍上人絵伝」に、弘安3年(1280年)に祖父の墓で供養を行う様子が描かれていることが、この墓所を発見する手がかりになった。
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