<神皇系氏族>天神系

A223:神聞勝命  神聞勝命 ― 中臣阿麻毘舎 NT11:中臣阿麻毘舎

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中臣鎌子 中臣勝海 稗田阿礼
 欽明天皇の時代の連。仏教伝来に際して、これに強く反対した。欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝する可否を群臣に求めた。大臣の蘇我稲目は礼拝に賛成したが、大連の物部尾輿と鎌子は反対した。天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させたが、間もなく疫病が起こった。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上した。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれた。

 姓は連。出自は明らかでなく、父は中臣鎌子,中臣磐余,中臣真人の諸説がある。大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
 敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上。用明天皇2年(587年)4月、天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し、群臣にこのことを協議するように命じた際にも、守屋と共に詔に反対している。その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。

 古事記の編纂者の一人ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。
 稗田阿礼自身その出自や事績に関しては謎が多く、実際は架空の人物もしくは実在したとしても『古事記』編纂に何の関わりもないともされる。