中臣氏と藤原氏の違いは、前者は神祇を司どるという職能を持っているところにあり、忌部氏と共に、代々宮廷の神事・祭祀を担当している。氏の名の由来は、「中つ臣」で縮まって「なかとみ」となったものであり、神と人との仲介をするという意味である。中臣氏系図によると、欽明天皇の時代に中臣常盤が初めて中臣連を賜ったとある。 位階は冠位十二階第二位の小徳であり、政府内部における発言力が大きかった。 『日本書紀』巻第二十二によると、623年(推古天皇31年7月)、新羅が任那を攻撃し、任那が新羅に服属した。そこで、天皇は新羅征伐を思い立ち、大臣蘇我馬子とも相談し、群卿たちからも意見を求めた。 慎重派の田中臣は様子見を主張。これに対し、好戦派の国子は、「任那は元々内官家であり、今、新羅人がそれを奪ったのです。それを取り返して、百済につけましょう」と主張した。田中臣は、「百済は度々態度を変える国です。道路の区間にすら嘘があります。どれも信じられません。百済に任那を渡してはなりません」と言上した。 その結果、田中臣の意見が通り、吉士磐金と吉士倉下を新羅に派遣することになった。時の新羅王は、『三国史記』によると真平王であったが、任那は小国であるが、天皇に従う国であるため、今まで通り天皇家の内宮家として維持をすることを保障した。しかし、磐金らが帰国する前に、境部臣雄摩侶と中臣連国子らは突如、征新羅大将軍に任命され、数万の軍を率いて新羅を征討した。新羅王は日本軍の数が多いと聞き、怖じ気づいて服属する意向を将軍らに伝え、将軍らはこのことを天皇に奏上し、天皇はこれを聞き入れた。 あとで、磐金らからの報告を聞いた蘇我馬子は、「軍隊をおくるのが早すぎた」と悔やんだという。この軍事行動は、強硬派によって突然敢行されたものであり、大和政権内部の不統一を露呈したものであり、しばらく続いた新羅との協調外交もこれにより崩壊した。
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叔父・藤原鎌足の娘を娶って婿養子となり、鎌足の実子である藤原不比等が成人するまで藤原氏の氏上であったといわれている。 朱鳥元年(686年)大舎人の官職にあった際、大津皇子に欺かれて謀反に加担したとして捕らえられるが、罰されることなく赦される。持統天皇3年(689年)藤原不比等らと共に判事に任ぜられており、律令の整備に従事したと考えられる。 文武天皇2年(698年)かつて藤原鎌足に与えた藤原朝臣姓は鎌足の子である不比等のみに継承させる旨の詔勅が発せられる。これにより意美麻呂は中臣氏の世業である祭祀を掌っているとして、藤原朝臣から中臣朝臣姓に戻される。文武天皇3年(699年)鋳銭司が初めて設置されるとその長官となる。大宝元年(701年)の大宝令の施行を通じて正五位下に叙せられると、文武朝後半において急速に昇進し、慶雲2年(705年)には従四位上・左大弁に至る。 元明朝の和銅元年(708年)には参議を経ずに、正四位下・中納言兼神祇伯に叙任され公卿に列した。和銅4年(711年)4月に正四位上に叙せられるが、同年閏6月22日に卒去。最終官位は中納言正四位上兼神祇伯。 『出雲国風土記』に猪麻呂という神官の話が出てくるが、これと意美麻呂と同一人物という説がある。
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養老7年(723年)正六位上から従五位下に叙爵。神亀元年(724年)に持節大将軍・藤原宇合らによって行われた蝦夷征討に参画したらしく、翌神亀2年(725年)正月に征討軍参加者に対して行われた叙位・叙勲に際して、従五位上および勲五等を与えられている。 その後、天平年間初頭に右中弁・神祇伯を歴任する一方、天平元年(729年)正五位下、天平3年(731年)正五位上と順調に昇進している。
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天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に行われた叙位にて、従五位下に叙爵する。神護景雲2年(768年)阿波守に任ぜられる。 光仁朝に入ると、宝亀3年(772年)玄蕃頭、宝亀5年(774年)宮内大輔と京官を歴任し、この間の宝亀4年(773年)従五位上に叙せられている。宝亀9年(778年)近江介任ぜられ、再び地方官に転じる。 延暦2年(783年)民部少輔として京官に復すと、延暦4年(785年)治部大輔、延暦6年(787年)神祇大副、延暦8年(789年)宮内大輔と桓武朝初期は再び京官を歴任した。また延暦7年(788年)には正五位下に昇叙されている。延暦9年(790年)紀伊守に遷った。
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