<神皇系氏族>天神系

NT31:中臣国子  中臣阿麻毘舎 ― 中臣国子 ― 大中臣清麻呂 NT21:大中臣清麻呂

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大中臣清麻呂 大中臣子老

 天平15年(743年)従五位下・神祇大副に叙任される。聖武朝末の天平19年(747年)尾張守として地方官に転じるが、孝謙朝に入り天平勝宝3年(751年)従五位上に叙せられ、天平勝宝6年(754年)神祇大副に還任し次いで左中弁に任ぜられた。その後は、藤原仲麻呂政権下において順調に昇進し、天平宝字6年(762年)正月に従四位下叙せられると、同年12月には仲麻呂の子である訓儒麻呂,朝狩と共に参議に叙任され公卿に列した。また同年8月には、藤原訓儒麻呂,上道正道らと共に中宮院に侍して淳仁天皇の勅旨の宣布・伝達する任務を務めた。
 しかし、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇側について正四位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)には勲四等の叙勲を受ける。また同年称徳天皇重祚後の大嘗会に神祇伯として供奉したが、幾度にも亘り神祇官の官人を務め、清廉で勤勉であることを天皇より賞され、従三位に叙せられている。
 称徳朝から光仁朝にかけても、神護景雲2年(768年)中納言、神護景雲4年(770年)正三位・大納言と引き続き昇進を続け、宝亀2年(771年)には左大臣・藤原永手の薨去や右大臣・吉備真備の致仕に伴い、従二位・右大臣に叙任されて、以後宝亀11年(780年)末まで太政官の首班を占めた。なお、宝亀2年(771年)皇太子・他戸親王の東宮傅となるも、翌宝亀3年(772年)他戸親王が皇太子を廃されたために東宮傅を免ぜられる。しかし、宝亀4年(773年)に今度は山部親王(のち桓武天皇)が立太子すると再び東宮傅に還任された。また、この間の神護景雲3年(769年)中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓している。宝亀3年(772年)正二位。天応元年(781年)桓武天皇の即位後間もなく致仕を許され、延暦7年(788年)7月28日薨去。享年87。 
 国家の昔のことをよく知っている老臣であり、朝廷の儀式について多くを諳んじかつ熟練していた。高位の官職にあって政務を見るにあたって、年老いても精勤で怠ることがなかったという。当時としては異例の87歳という長寿を保ち、文武朝から桓武朝の九朝に亘って生き、聖武朝から桓武朝の六朝に仕えた。

 称徳朝の天平神護3年(767年)従五位下に叙爵され、翌神護景雲2年(768年)中務少輔に任ぜられる。のち美作介,伊勢介と地方官を務める一方、神護景雲3年(769年)には中臣朝臣姓から大中臣朝臣姓に改姓している。
宝亀3年(772年)神祇大副として京官に復帰すると、宝亀4年(773年)従五位上、宝亀5年(774年)正五位下、宝亀7年(776年)正五位上、宝亀8年(777年)従四位下・神祇伯と、光仁朝では父の右大臣・清麻呂の威光もあり、神祇官の官人を務めながら急速に昇進した。     
 天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく父の清麻呂が右大臣を辞任して政界を引退すると、代わって子老が従四位上・参議に叙任され公卿に列する。桓武朝では、議政官として長く神祇伯を務める傍らで式部大輔,右京大夫,宮内卿,右大弁,兵部卿等を兼任、またこの間の延暦3年(784年)には、中納言の藤原小黒麻呂や藤原種継らと共に、遷都のため山城国長岡の地を視察している。延暦5年(786年)正四位下に昇叙。延暦8年(789年)1月25日卒去。

大中臣淵魚

 大同4年12月(810年1月)従五位下に叙爵。弘仁6年(815年】神祇大副に任ぜられる。のち、天長7年(829年)従四位下・神祇伯と嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進した。
 仁明朝の天長10年(833年)従四位上・摂津守に叙任。長らく神祇伯を務め、天長10年(833年)賀茂大神に奉幣し、承和9年(842年)には伊勢・八幡の祟りによる日照りを鎮めるために祈祷を行っている。また、弘仁6年(815年)から承和9年(842年)にかけて28年に亘って伊勢神宮祭主も務めた。承和10年(843年)上表して致仕し、官界を退いた。嘉祥3年(850年)3月3日卒去。享年77。        
 慎み深い一方、きめ細かく行き届いた性格で、神事を良く理解し熟達していた。病のために自邸で伏せるようになると、人や物に交わることなく一人奥深く籠もって静かに過ごし、病人のための薬や食事を摂りつつ、死期を待っていたという。