<神皇系氏族>天神系

NT33:大中臣清麻呂  中臣阿麻毘舎 ― 中臣国子 ― 大中臣清麻呂 ― 大中臣今麻呂 NT41:大中臣今麻呂

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大中臣常麻呂 大中臣雄良

 従五位下に叙爵後、延暦23年(804年)下野介に任ぜられる。
 平城朝の大同3年(808年)神祇大副として京官に復し、翌大同4年(809年)右衛士佐次いで兵部少輔と武官を務める。嵯峨朝に入り、大同5年(810年)4月に従五位上に昇叙される。同年9月に発生した薬子の変に連座して備前権守に左遷されるが、まもなく伊予守に遷っている。

 始め内舎人を務める。天長4年(827年)淳和天皇の体調が優れないことから占いを行ったところ、東寺が桓武天皇の御願寺の塔を作るための材木として稲荷神社の樹木を伐採したことによる稲荷神の祟りであるとの結果が出た。そのため、従五位下の神階を授けるために、雄良は稲荷神社に遣わされた。当時の位階は従七位下であった。その後、正六位上・常陸少掾に至った。
大中臣有本

 清和朝の貞観9年(867年)霖雨を止めるために畿内の諸神に祈りを捧げた際、神祇少副として諸社へ派遣される。貞観12年(870年)諸社に新鋳銭(貞観永宝)を奉った際に平野社使を務めている。同年に伊勢神宮祭主・大中臣豊雄が没したことから、貞観14年(872年)有本は後を継いで祭主となり、従五位下に叙爵する。貞観16年(874年)神祇大副に昇任され、同年山城国稲荷の上中下の三名神に従三位の叙位を行う際に使いを務めた。貞観18年(876年)散位・基棟王とともに伊勢大神宮に派遣され奉幣を行っている。
 陽成朝初頭の元慶元年(877年)従五位上に昇叙、光孝朝初頭の元慶8年(884年)正五位下に昇進する。宇多朝の寛平元年(889年)大嘗会の功労により正五位上に至る。寛平6年(894年)2月8日卒去。