寛弘5年(1008年)頃に一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部,紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。康平3年(1060年)までの生存が確認されている。 『百人一首』にも採られて有名な「いにしへの」の歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものである。 いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬる哉