<神皇系氏族>天神系

NT33:大中臣清麻呂  中臣阿麻毘舎 ― 中臣国子 ― 大中臣清麻呂 ― 大中臣諸魚 NT35:大中臣諸魚

リンク NT36
大中臣諸魚 大中臣智治麻呂

 光仁朝初頭の宝亀2年(771年)皇后宮少進に任ぜられたのち、同年7月に右衛士大尉に転じ、宝亀6年(775年)中衛将監を経て、宝亀7年(776年)従五位下・衛門員外佐に叙任される。その後も、武官を務める一方、備前介,下野守と地方官を兼ねている。
 桓武朝に入ると、天応2年(782年)少納言と文官に転じる。桓武朝では長岡京遷都を担当し、延暦3年(784年)6月に中納言・藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、同年11月には遷都に関連して松尾神社,乙訓神社に派遣されている。
 のち、延暦4年(785年)右中弁兼左兵衛督と文武の要職を兼ねる一方で、急速に昇進し、延暦9年(790年)参議に任ぜられ公卿に列した。その後も昇進し、議政官として左大弁・近衛大将を兼ねた。
 なお、延暦8年(789年)以降神祇伯も兼任し、延暦10年(791年)神宮が放火されたことの謝罪、延暦13年(794年)蝦夷征討祈願を目的に、いずれも伊勢大神宮に派遣されて幣帛を奉納している。また、延暦11年(792年)母・多治比子姉が卒したが、これに先だって、中臣氏で神祇伯を務める者は、天照大神に仕える神主であることから、代々近親者の服喪のために解官されることがない旨、諸魚は朝廷に申請していた。しかし、諸魚が葬儀に携わらないといっても、そのまま神事に供奉してはならないとして、法令通り官を辞して喪に服すよう勅令が出されている。延暦16年(797年)2月21日卒去。享年55。

 平城朝にて神祇大副を務める一方、大同3年(808年)には従五位上に叙せられて、右少弁を兼ねている。
 大同5年(810年)に発生した薬子の変の直後に武蔵介として地方官に転じるが、弘仁2年(811年)治部大輔として京官に復す。弘仁4年(813年)正月に再び地方官として備中守に任ぜられ、同年11月には移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ねている。