<神皇系氏族>天神系

NT35:大中臣諸魚  中臣阿麻毘舎 ― 中臣国子 ― 大中臣清麻呂 ― 大中臣諸魚 ― 卜部平麻呂 NT36:卜部平麻呂

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卜部平麻呂 卜部兼好

 平麻呂は伊豆国の出身とされるが、その出自は明らかではない。大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが、宿禰姓の平麻呂が朝臣姓の大中臣氏の後裔であることは考えにくいことから、後世の仮冒とされる。ほかに、中臣氏族とし、卜部嶋足あるいは卜部宮守の子とする系図もある(ここでは智治麻呂の子として繋いている)。  
 幼い頃から亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形により吉凶を占うこと)を習得した。神祇官の卜部となり、亀卜により義疑を決するにあたって能力を発揮したという。卜術に優れていたことから、承和5年(838年)の遣唐使に加わり入唐する。翌年帰国した後、神祇大史・神祇少佑を経て、文徳朝末の斉衡4年(857年)外従五位下に叙せられる。
 天安2年(858年)神祇権大佑に任ぜられ宮主を兼ね、貞観8年(866年)三河権介を経て、貞観10年(868年)内位の従五位下に叙位。こののち、備後介,丹波介と清和朝後半以降は地方官を歴任すると共に、真雄から平麻呂に改名している。     
 元慶5年(881年)12月5日卒去。享年75。

 「兼好法師」と表記される。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年(1283年)頃の出生と考えられている。
 堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか前である1313年ないしそれ以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。
 出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
 南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたとも伝えられる。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。
 二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。
 室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また晩年は、当時の足利氏の執事で名高い武家歌人でもある高師直に接近した。正平3年/貞和4年(1349年)末、師直が公卿・洞院公賢に対し狩衣着用の規則を尋ねる際に、師直の使者として遣わされている。     
 没年は、『大日本史料』所引の『諸寺過去帳』収載『法金剛院過去帳』の記載や、17世紀中葉の大和田気求『徒然草古今抄』の記す伝承により、観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされ、また異説として洞院公賢の『園太暦』は観応元年2月15日に兼好が伊賀国名張郡国見山にて死去したとする記事を載せていることからこの日とする説もあったが、これらの日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。