天授元年/永和元年(1375年)、それまでの宿禰を改め朝臣の姓を賜った。天授4年/永和4年(1378年)、室町幕府3代将軍・足利義満が室町第に移ったことから、それまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田を家名とした。元中3年/至徳3年(1386年)、それまでの父祖の官位の例(神祇伯の相当位階は従四位下)を超えて従三位に叙され、公卿に列せられた。元中9年/明徳3年(1392年)には南北朝合一に向けての交渉(明徳の和約)にあたった。 |
吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。家系は神道家の卜部家の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興した。 始め神祇大副を務め、卜部家の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と「中臣祓」について研鑚を重ね、後土御門天皇に進講したのを始め、公家達にも講義を行った。文明16年(1484年)、吉田神社に斎所として虚無太元尊神を祀る大元宮を創建して、日本各地の神を祭ったが、伊勢神宮には反対された。吉田神道の入門書であり、また根本経典でもある「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷,幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。 明応8年(1499年)に42歳で死去した子・兼致のために吉田山に寺院「神龍院」を創設し、その長老に息子の妙亀を就けた。神龍院はその後梵舜など吉田家の人間が跡を継いだ。 永正8年(1511年)、薨去。享年77。死後吉田社(現在の吉田神社)の境内に葬られ、神龍社にて、神龍大明神として祀られている。 兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があった。兼倶は吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした。
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