<神皇系氏族>天神系

NT11:中臣阿麻毘舎  中臣阿麻毘舎 ― 中臣糠手子 NT51:中臣糠手子

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中臣 金 中臣英勝

 一族の指導的な存在であった藤原(中臣)鎌足の死後、一族の中心人物として急速に出世する。翌天智天皇10年(671年)1月5日には、天皇の勅命により神事を宣べると共に、同日に右大臣に任じられた。同時に大友皇子(弘文天皇)が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、蘇我果安,巨勢人,紀大人が御史大夫に任命された。このときの金の冠位は大錦上であった。
 同じ年の10月に天智天皇が重病となり、大海人皇子(天武天皇)が出家して吉野に赴いたとき、中臣金は蘇我赤兄,果安と共に皇子を菟道(現宇治市)まで見送った。
11月23日、大友皇子と上記の左右大臣,御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。ここでいう「天皇の詔」の内容ははっきりしないが、天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。
 大海人皇子は天武天皇元年(672年)6月に挙兵して壬申の乱を起こした。戦局が大友皇子側に不利となり、7月22日に瀬田で最後の決戦が行われたとき、中臣金は大友皇子に従って出陣した。この戦いで敗れると、金は逃げた。大友皇子は7月23日に自殺に追い込まれ、金はその後に捕らえられた。『日本書紀』は7月24日の条文で「左右大臣諸々の罪人を探り捕らえた」と記す。一か月後の8月25日に、近江国浅井郡田根で斬り殺された。子孫は流罪になった。

 大友皇子の妃・耳面刀自媛の従者として、鎌足の故地鹿島を目指し九十九里浜に上陸したが病に倒れた媛が亡くなり、匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。英勝ら従者は、媛の御霊を弔いながらこの地で一生を終えたと伝わる。
 旭市の内裏神社は内裏塚古墳の墳土を分祀したものと伝わり、内裏神社の近くには大塚原古墳がある。明治24年(1891年)この大塚原古墳の風雨で崩壊した部分の作業の際、若干の人骨と石棺の蓋に「連金子英勝」と刻まれているのが発見された。「連金子英勝」とは、中臣連金の子・英勝とされ、大塚原古墳は子の英勝の墓とみられている。

中臣大島 大中臣伊度人

 中臣鎌足,金の後を継いで中臣氏の氏上的な立場となり、天武,持統朝で内政,外交の両面で活躍した。また、持統朝では神事での活動も目立ち、律令国家確立期にあって、政祭両面で重要な役割を果たした。 
 天武天皇10年(681年)3月に川島皇子,忍壁皇子らと共に、天武天皇より『帝紀』および上古の諸事(『本辞』『旧辞』など)を記し校定するよう命ぜられる。特に大島と平群子首は自ら筆を執って記したという。同年12月に小錦下に叙せられる。天武天皇12年(683年)伊勢王,羽田矢国らと共に判官・録史・工匠らと共に全国を巡行して諸国の境界区分を行った。しかしこの時は区分を完成させることはできなかった天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により連姓から朝臣姓に改姓し、その後時期は不明ながら藤原朝臣姓に改姓している。
 朱鳥元年(686年)正月に新羅使・金智祥を饗応するために、大島は河内王,大伴安麻呂,境部鯯魚,穂積虫麻呂と共に筑紫に遣わされた。同年9月に天武天皇が崩御し、同月末に殯宮で諸官人が誄した際、大島は兵政官の事を述べる。また、翌持統天皇元年(687年)8月に持統天皇の命令を受けて、黄書大伴と共に300名の高僧を飛鳥寺に招集し、天武天皇の衣服で縫製した袈裟を与えている。その後、藤原不比等の立身に伴って、大島は藤原朝臣姓から中臣朝臣姓に復姓している。     
 持統天皇4年(690年)持統天皇の即位の儀に際して、神祇伯として天神寿詞を読んだ。また翌持統天皇5年(691年)の大嘗祭でも天神寿詞を読んでいる。持統天皇7年(693年)3月11日に賻物を与えられており、この日に卒去したと考えられる。

 清和朝の貞観8年(866年)木工大允として木工権大允・藤原直宗とともに応天門の変で焼失した応天門再建のための材料を得るために丹波国へ赴く。
 その後、木工助に昇任され、陽成朝初頭の元慶元年(877年)11月に従五位下に叙爵する。同年12月25日(878年1月31日)には伊度人を含む中臣石根の玄孫19名が中臣朝臣姓から大中臣朝臣姓に改姓された。翌元慶2年(878年)神祇伯・棟貞王とともに奉幣使として伊勢神宮に派遣されている。