『常陸国風土記』香嶋郡条に登場する人物で、同書によると崇神朝に神が大坂山頂に白妙の大御服を着て顕現し、白鉾の御杖を取って神勅を下したとされる。そこで天皇は八十の伴緒を召集し、神託を下した神について問うと、大中臣神聞勝命が「大八嶋国は汝が知ろすべき国と言向け賜った、香嶋国に坐す天津大御神(鹿島神)の下された教戒です」と答えた。天皇はこの言を聞いて驚き恐み、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、許呂四口、枚鉄一連、練鉄一連、馬一匹、鞍一具、八咫鏡二面、五色の絁一連の幣帛を神宮に奉納したとされる。 『常陸国風土記』には神聞勝命と倭武天皇に使える臣狭山命が登場することから、中臣氏本宗家である神聞勝命、国摩大鹿島命、臣狭山命の三代ほどが東国で活動した可能性がある。 |
久志宇賀主命は国摩大鹿島命と同じ垂仁朝の人物とされ、これに従えば大鹿島命とは同時代の人物となる。また久志宇賀主命の別名を探湯主命ともいい、この探湯の名は託宣の名を持つ神聞勝命にも通じる。これらの理由から久志宇賀主命が実際には神聞勝命か大鹿島命のどちらかと同一人物と考えられる。その場合、大鹿島命の実際の父は神聞勝命、母は伊豆国造の娘である美加々比売命と見られる。しかし神聞勝命と久志宇賀主命は早くに別人化したものと見られ、『新撰姓氏録』では同人説と別人説の二種類の世系が記載されている。 |