『日本書紀』では「壱伎直祖真根子」、他文献では「真根子命」とも表記される。『古事記』に記載はない。『日本書紀』では、真根子の系譜に関する詳しい記載はない。 「松尾社家系図(歌荒洲田卜部伊伎氏本系帳)」では、父を雷大臣命、母を武内宿禰の妹とする。この雷大臣命は、『新撰姓氏録』右京神別天神壱伎直条等において、天児屋命(中臣氏祖神)後裔かつ壱伎直ら諸氏族の祖に位置づけられる人物である。 『日本書紀』応神天皇9年4月条によれば、天皇の命で武内宿禰が筑紫へ派遣された際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言し、天皇は武内宿禰を殺すため使いを出した。しかし、武内宿禰と容姿がよく似ていた壱伎直祖の真根子が武内宿禰の身代わりとなって自刃した。その後、武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明し、甘美内宿禰との探湯の対決を経て疑いを晴らしたという。 一方「松尾社家系図」では、真根子命は神功皇后の三韓征伐で父(雷大臣命)に従って三韓に至ったとする。そして征伐後は壱岐島に留まり、その子孫は本姓をもって中臣氏または卜部氏、または地名をもって壱岐氏を称したとしている。
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対馬の下県郡に住んでいたが、鸕鷀鳥を捕るために新羅との国境に行き捕まったという。現地で見た軍事演習が対馬攻めのためであることを知り、貞観12年(870年)脱走して大宰府に報告した。 |
貞観5年(863年)4月に筑前国宗像郡の主政に任ぜられたという。律令制度下、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官として郡司が置かれたが、主政とは郡司の四等官(大領,少領,主政,主帳)の内の一つである。宗像に着任した最初の卜部(占部)はこの人物と考えられる。 |