<神皇系氏族>天神系

IK01:壱岐真根子命  神聞勝命 ― 壱岐真根子命 ― 卜部兼安 IK02:卜部兼安

リンク
卜部兼安 卜部維安 卜部宗治
 戦に敗れて宗像に逃れ大宮司宗像氏国を頼る。氏国は空いていた旧臣占部の戸籍に入れて、占部兼安と名乗らせた。  宗像四任のうちでも文武に秀でた英傑で誰もが一目置く人物であった。鞍手郡若宮荘にて八百町を領有した。  建武3年(1336年)3月足利将軍尊氏卿が菊池掃部助武俊と多々良濱で戦った時、城左馬助武治を討つ。これにより、翌年12月17日、将軍より筑前吉川庄三百町を加恩される。先祖よりの若宮荘八百町と共に千百町を領有した。貞和6年(1350年)2月肥前の晴氣で戦死。
卜部弘安 卜部弘安 卜部安延
 建武3年(1336年)赤星右馬助を多々良濱に討つ。貞和6年(1350年)2月15日父と共に晴氣で戦い功あり。延文4年(1359年)7月菊池肥後守武光が襲来、多々良濱にて戦う。同年8月8日菊池と大いに戦う。嫡子太郎實安、次郎、三郎並びに一族諸士の多くが命を落とした。親安はしばらく豊後に出奔。貞治元年(1362年)9月27日菊池の先駈秋月三郎、原田大蔵太輔と筑前の長者原で戦い、大いに功あり。同6年3月28日菊池の軍士名和里見の堅陣を築後国鳥飼で敗る。応安6年(1373年)4月菊池右京太夫武政追討のために今川伊豫守貞世入道了俊、大内左京太夫義弘、筑前小田原で戦う。宗像氏重、少弐冬資、今川・大内を救う。親安菊池の家臣合志左近将監を討って忠功ますます秀づ。 応永2年(1395年)12月大内左京太夫義弘入道道実に従い泉州堺に至り畠山尾張守満家と戦って死す。 嘉吉元年(1441年)12月大内介敎に従い、太宰小弐嘉頼の有智山の城を攻めて大いに功あり。寛正元年(1490年)閏9月剃髪して宗快という。文明2年(1470年)3月宗像郡上八村に承福禅寺を建て亡き子盛延,弘尚などの追福をする。同10年6月18日没。81歳。
卜部祐安 卜部豊安 卜部尚安
 永享12年(1440年)誕生。母は宗像大宮司氏澄の娘。文正2年(1467年)8月弘安が戦死した時大いに軍功をたて、父の入道は家督相続を命じた。文明元年(1469年)5月17日仁保加賀守弘直が宗像郡西郷に出陣し、大内新蔵人教祐が戦死。この時、矢傷を受けたが最後には弘直の軍を破って功をたて、続いて小弐教頼の有智山の城を攻めて武名を高める。明応7年(1498年)8月嫡子豊安と共に大内左京太夫義興に従い豊州佐田城を取って大いに功あり。文亀4年(1504年)2月剃髪して宗月という。永正14年(1517年)5月27日没。

 明応7年(1498年)8月、豊後佐田城に武名をあらわす。同8年宗像興氏を助けて、宗像氏佐の片脇城を囲む。氏佐は豊後に出奔した。
 永正3年(1506年)1月筑前次郎政資が大宰府で蜂起する。大内義興は二万余騎を率いてこれを攻め、政資は戦死した。同8年8月義興は細川右馬頭政資を船岡山に討伐するが、豊安軍の軍忠は他を超え、舎弟占部孫三郎盛祐、家臣弘中五郎は命を落とした。
 大永5年(1525年)10月11日安部伊豆守範任とともに宗像郡深田村に兵を進め、宗像民部少輔氏続の館を囲む。氏続は行方をくらます。この時範任が氏続に通じていたとの風聞が立ったため豊安並びに許斐四郎氏任などが協議の上範任を飯盛山にて討ち果たした。
 豊安は城とする所を探したが、大内家の領地になっていた許斐山を義隆に願い出てこの場所を賜った。豊安は大いに悦び享禄2年(1529年)10月より土民を督励して堅牢無比な城を構え、吉原に里城を築いて要塞を一層堅固にし、これに居城した。
 天文元年(1532年)9月15日宗像新四郎氏延が許斐岳を襲う。豊安は応じて追い退け続いて立花左近将監鑑光の立花城を攻めて功をたてる。同11年閏三月嫡子尚安を大内義隆に従わせ雲州富田城を攻めさせた。同14年11月21日没。

 永正17年(1520年)6月5日元服して豊治という。  
 天文元年(1532年)9月15日宗像氏延勢を追討し同2年3月8日右馬助尚安と改名。宗像隆尚の一字を受ける。同9年3月22日、嫡子尚持と共に立花城を攻めて功名を表す。同11年閏3月大内太宰大弐義隆に従って雲州に向かい尼子の富田城を攻めて大いに功あり。天文24年10月嫡子尚持と共に芸州に行き、志を毛利右馬頭元就に通し、戦功大いにあり。
 永禄2年9月25日立花但馬守鑑載、奴留湯長門守鎭氏、他大友幕下の軍士がにわかに来襲。味方は勇猛をふるうが、時に望んで無勢のため勝を得ず。城を捨てて大嶋に出奔する。同3年正月勝嶋に要害を普請し、神湊に城を構えて住まう(草崎城)。同年4月許斐岳に帰城する。同年8月奴留湯長門入道融泉、高橋三河守鑑種、戸次伯耆鑑連、臼杵越中守鑑速、吉弘伊予守鑑理、以下軍士数万人が来襲。尚安の一族占部日向守矩安、同民部少輔貞盛、同織部丞貞治、河津新四郎隆家、深川右京進貞国、以下八百余人、許斐岳を守り固める。嫡子右馬助尚持は伯父左馬助重安、左近将監良安以下三百余人、吉原里城を守る。氏貞朝臣は一千余人を従えて白山に籠城し、蔦岳城には宗徒の軍士二千五百余騎が在城する。16,7両日諸所で戦う。尚安と尚持とその子宮若丸は相共に軍忠他に異なり、よって毛利元就、隆元、宗像氏貞は書を以って称える。同4年4月10日氏貞は書を送り、尚持に地頭所鞍手郡沼口村の内一方を配当しようとするが、尚安はこれを受けず。同13日には再度沼口の事を辞退する。占部賢安、吉田重致が足を運んで説得し、ようやく許諾した。同18,9両日にわたり、豊後製と許斐岳の城下において大いに戦い、敵を多く追討した。豊後の兵は遂に敗北。大江元就は書を送り、尚安の勇猛を称えた。同年8月亡き子尚持追悼のために平井村に寺を建てる。建興院という。田島村医王院三世の玉岩和尚を開山とする。同年10月氏貞自ら筆を取り、政事及び宗像大神の社殿建立の事を談ずる。同7年毛利と大友の和睦調停のため、7月28日元就は意向、趣を書を以って述べる。同9年正月13日家領を孫の貞保に譲ったが実際の運営に当たっては尚安が指揮をとる。同年9月神湊に隣船庵を建てる。開山は可真座元。同年9月10日立花鑑載、奴留湯融泉と飯盛山下で戦って功あり。同12年大江元就、吉川駿河盛元春、小早川左衛門佐隆景、宍戸安芸守隆家以下数万の兵をして立花城を攻めさせた。尚安、貞保は計略を持って許斐岳城を転じて吉原の里城に至る。
 元亀3年(1572年)2月3日没す。70歳 承福寺の門前乙尾山に葬る。

卜部尚持 卜部貞保

 大永7年(1527年)正月1日吉原里城に生まれる。春王丸と名づける。
 天文9年(1540年)3月22日父と共に立花城を攻めて功あり。時に年14歳。同11年(1542年)閏3月1日元服弥六郎尚持と名乗る。宗像隆尚が加冠。同24年4月7日右馬助と改める。同7月7日多賀美作守隆忠が許斐岳城を夜更けに攻め落とす。同年10月父と共に芸州に至り、志を大江元就に通し、厳島の西鼓ヶ浦で戦功をたてる。
 弘治2年(1556年)11月11日父と共に杉豊後守連緒の兵を若宮庄室木で討つ。同3年7月8日多賀隆忠を畝町川原で討ち首を取る。同年9月毛利勢に属して豊前に出向き戦功甚だしい。同4年正月12日立花勢を古賀原に討つ。同年3月11日杉連緒の軍兵を赤間にて討つ。同年11月9日連緒の兵若宮庄生見村で討つ。
 永禄2年(1559年)9月5日手野卿糟薗名を領する。同月25日立花鑑載、奴留湯鎮氏及び大友幕下の兵卒数千騎が俄かに来襲する。白山、許斐両城を囲む。遂には城を抜けて大嶋に向かう。同年11月奇計を用いて神屋主馬允を密かに鎮氏に仕えさせる。同3年3月28日許斐岳を攻め取る。鎮氏は行方をくらます。元就、氏貞は深く感じて書を送る。 同年6月24日鞍手郡沼口村を領する。同年7月中国に至り毛利元就に謁する。同年8月豊後勢数万人が来襲して対陣度々防戦に及ぶ。 同月16,7日両日豊後の兵敗北。尚持は敵を打つこと数知れず。帰路についたが途中で伏兵に左足を斬られる。 尚持怒ってすぐさまこれを討つ。(黒糸の鎧、枇杷葉の着物)終に17日の黄昏、深手の為に命を落とした。時に34歳。

永禄3年(1560年)8月16日初陣。豊後兵奴留湯主水の堅陣を赤間庄長尾原で破り勇名を顕す。時に14歳。同月20日氏貞感状を賜う。同8年12月13日元服。八郎貞保と号す。氏貞が加冠。同9年正月13日家領相続の証文を賜う。同年宝満山の城主高橋三河守鑑種は密かに志を毛利家に通す。貞保は趣旨を芸州に訴えた。この時元就は雲州におり、尼子と対陣の為、留守の宰臣6人が閏8月15日に連署して貞保に使札を遣わす。即ち立雪斎恵心、乃美兵部丞宗勝、市川式部少輔経好、赤川左京亮元保、坂新五左衛門元祐、志道大蔵少輔元保である。同10年7月7日麻生鎮里豊州に媚びて同姓攝津守隆実と戦う。貞保は隆実を助て翌8日上津役の要害を切り崩して敵を大いに討つ。氏貞はこれを書面を以ってほめ、石松摂津守典宗を使わして褒美を授けた。同年9月10日立花城下に軍を出し、立花奴留湯の兵を討つ。同年冬承福寺と山境を争う。永禄11年5月占部越後守賢安、吉田伯耆守重致の計らいで承福寺瑞林和尚と和睦する。瑞林和尚は山鹿城主麻生形部少輔家助の末子で、貞保の叔父である。同12年(1569年)毛利勢立花城を囲む。3月18日元就は趣旨を書に書いて、貞保に示す。同年5月18日豊後兵堤九郎次郎を長尾原で討つ。同年10月16日豊後兵を吉原里城構口にて撃つ。天正6年(1578年)6月1日宗像皇大神遷宮の座において大和左衛門尉秀尚を面縛(両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと)した。氏貞は憤怒して貞保を咎めたが貞保は心服せず。許斐岳を退き上八の邸宅に籠居し召されても出ない。同姓の占部賢安は社役の長としてしきりに大和の不忠を挙げる。同年10月終わりに大和氏は断絶された。しかし貞保はしばらく政事の舞台に出ない。同9年8月父を祀った今宮社を住居の傍らに移す。天正14年(1586年)2月14日筑後守と名付けられる。貞保は越前守となることを願うが叶わない。同年3月氏貞の死を悼み元の八郎に戻る。天正15年3月3日九郎右衛門と改める。同年豊臣秀吉公に長州下関において謁っする。秀吉公西国下向によって氏貞の後室より使者として吉田河内守守道も同様である。同年5月豊臣公が薩州から帰陣の時筑後堺より箱崎までお供する。家臣弘中勘助、吉田源兵衛、大和吉右衛門等もお供する。同7月箱崎で殿下秀吉公に拝謁。衣服一重を賜う。同月筑前一円、筑後の内四郡、小早川隆景公に賜う。その内夜須郡内二百町、筑後内二百町は宗像領とする旨公命があった。隆景公にその旨任せられる。この時貞保は祖父尚安以来中国や西国の処々に毛利家との交流があった。これによって隆景公はしきりに貞保父祖の忠功を公に話される。秀吉公は即座に肥前国瓜生野を賜う。すでに太閤秀吉公は岳山に入城された。その城を破却するようにとの命あり。隆景はすぐさま乃美兵部允を遣わして直ちに貞保に指示する。文禄2年(1593年)8月家臣岩松興吉、石松清左衛門、常世神右衛門を瓜生野へ遣わし、開墾地のことを沙汰させる。既に岐路箱崎放生会になり、名嶋の警固藤井三郎右衛門を討って、三人供に自殺した。この事で諍いがあり、乃美備前守、草刈対馬守が入魂して調べる。慶長2年(1597年)瓜生野を返上する。同14年二月南禅寺酊庵和尚(異国為道天在対府)法号を賜う。桃園宗仙居士と号す。寛永9年(1632年)12月4日没す。85歳。