<天孫系>

A102:火明命  天照大御神 ― 火明命 ― 建斗米命 A103:建斗米命

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建稲種命 宮簀媛命

 景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、日本武尊東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。
  内々神社 - 東征の帰路、水軍を率いていた建稲種命がめずらしい海鳥を見つけて、捕まえようとして駿河の海に落ち水死し、日本武尊が東征の帰路で尾張の内津峠に入った後、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から、建稲種命が水死した報告を聞き、悲泣して「うつつかな、うつつかな」といわれその霊を祀ったのが起源と伝えられている。
  幡頭神社 - 三河湾(渥美湾)の宮崎という地にある岬の丘の地に鎮座。東征の帰路、「幡頭」を努めた建稲種命が駿河沖の海で水難事故で死に、遺骸がこの岬の宮崎海岸に流れ着き、村人達により葬られたと伝えられる。
  待合浦(羽豆岬) - 南知多町師崎にある建稲種命を祀る羽豆神社近く、師崎は建稲種命と妻の玉姫が住んでいたとされ、建稲種命は毎日の様に風光明媚な羽豆岬を散歩していたとされる。建稲種命が日本武尊に従い東征の時、妻の玉姫は夫の帰りをずっと待ち続けていたとされる浦のため、「待合浦」と呼ばれるようになった。

 『日本書紀』によれば、日本武尊は東征の帰途、尾張へ入り尾張氏の娘宮簀媛を娶って滞在した。やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、草薙剣を媛の家に残し素手で退治に出かけた。しかし、山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせて尊を迷わした。このため尊は失神し、山下の泉でようやく正気を取り戻したが、病の身となっていた。そして尊は尾張へ戻るが、媛の家には寄らず、そのまま伊勢国に向かったという。『古事記』にも同様の話を記載するが、美夜受比売を尾張国造の祖とし、倭建命は比売の月の障りをおして交わったという。またその結婚は東国へ向かう途中に尾張を通った時に約束がしてあったとする。『尾張国風土記』逸文の熱田社由来および『熱田大神宮縁起』には、日本武尊が尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢媛命にその剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田神宮とされる。