<神皇系氏族>天孫系

A103:建斗米命  天照大神 ― 火明命 ― 建斗米命 ― 丹波古米 TN01:丹波古米

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丹波康頼

丹波雅忠

 丹波国天田郡(現在の福知山市)若しくは桑田郡矢田(現在の亀岡市)の出身。康頼以前の系譜は明らかでないが、出自には2つの説がある。1つは、渡来系の流れを汲む坂上氏の一族とするもので、遠祖は後漢の霊帝と称する。各種系図ではこの説を採るものが多い。『姓氏家系大辞典』でも出自を坂上氏の一族である丹波史の子孫とする。もう1つの説では尾張氏の一族で丹波国造家の丹波直の子孫とする。
  永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上した。これは、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したもので現存する日本最古の医学書である。こうした功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となる。
  子孫は代々典薬頭を世襲し侍医に任じられる者を輩出、その嫡流は室町時代に堂上家となり錦小路家を称した。子孫のうち著名な者としては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。
  薬学者の丹波敬三、また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・義隆親子や作曲家の丹波明が末裔にあたる。

 名医と謳われた典薬頭・丹波忠明の子として生まれる。医得業生から長元7年(1034年)に医道課試に及第し、長元8年(1035年)権医博士に任ぜられる。
  備後介を務めた後、永承2年(1047年)丹波介と地方官も兼任した。永承7年(1052年)後冷泉天皇の病に対して薬による治療を行って従四位下・侍医に叙任される。天喜5年(1057年)典薬頭・右衛門佐に補任。関白・藤原頼通の病を快癒させたことから、その推挙を受けて康平2年(1059年)施薬院使に任ぜられた。
 医師としての名声は日本国外へも伝わり、日本扁鵲とも呼ばれたという。承暦4年(1080年)には高麗王・文宗が悪瘡を病んだことから、大宰府を通じて高麗に雅忠を招聘しようとしたが、高麗側の儀礼に不十分な点があることを理由として、朝廷は派遣を断っている(医師招請事件)。
  応徳2年(1085年)主税頭正四位下兼侍医丹波介に至る。寛治2年(1088年)2月18日卒去。享年68。

 

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