YA01:東漢 掬 | 東漢 掬 ― 坂上弓束 | SU01:坂上弓束 |
リンク | SU02・TN01 |
坂上 老 | 坂上犬養 |
---|---|
壬申の年(672年)6月に大海人皇子が挙兵すると、近江大津宮にいた大友皇子は倭京に使者を派遣して軍を編成させた。倭はここでは大和のことで、倭京は飛鳥におかれた古い都のことである。しかしこのとき、大海人皇子側につくことを決めた大伴吹負は挙兵を目指して人数を集め、倭京の留守司の一人坂上熊毛と共に、一二の漢直に内応を求めた。漢直とは倭漢氏を指す。6月29日、まず秦熊が使者のふりをして馬に乗って馳せ、「高市皇子が不破から来た。軍衆が多く従っている」と誤報を言った。陣営の兵士は驚いて逃げ散った。それから数十騎で乗り込むと、熊毛と諸々の直が内応したため、吹負は難なく指揮権を奪取した。坂上老も熊毛と同族で「直」の一人であるから、ここで内応した一人である可能性が高い。 |
若い頃より、武芸の才能を賞賛されていた。聖武天皇の寵が厚く、天平8年(736年)外従五位下に叙されると、天平11年(739年)外従五位上次いで内位の従五位下、天平14年(742年)正五位下、天平15年(743年)正五位上、天平20年(748年)従四位下と、聖武朝において順調に昇進を果たす。 |
坂上苅田麻呂 |
坂上瀧守 |
天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵方に加勢するのを防ぐことを目的に、首謀者の一人である賀茂角足が事前に武勇に優れた人を集めて酒宴を開いた際、苅田麻呂も招待者の一人として名が挙げられている。天平宝字年中に授刀衛少尉に任官。 |
幼い頃より武芸に親しみ弓馬を習得するが、特に歩射に優れた。 |
坂上国麻呂 |
|
壬申の乱が勃発した際、坂上国麻呂は近江大津京にいたらしい。大津京にいた高市皇子は、父の大海人皇子の挙兵を知って京を脱出し、6月25日に鹿深を越えて積殖山口で大海人皇子の一行に合流した。このとき高市皇子に従っていたのが、民大火,赤染徳足,大蔵広隅,坂上国麻呂,古市黒麻呂,竹田大徳,胆香瓦安倍であった。鹿深は近江国甲賀郡のあたりである。積殖山口は後の伊賀国阿拝郡柘植郷と推定され、当時は伊勢国に属した。国麻呂のその後の行動については記録がない。 |