中国(後漢王朝)渡来系

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坂上田村麻呂 坂上広野

 光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇と4代の天皇に仕え、忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人として、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。延暦19年(800年)頃の肩書きは「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」となっている。
 薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神,軍神として信仰の対象となる。

 

Wikipedia-坂上田村麻呂参照

 

 弘仁元年(810年)に発生した薬子の変では父・田村麻呂と共に嵯峨天皇側について、従五位下・右兵衛佐に叙任されると共に、国府の鎮護および逢坂関の固関のために近江国に派遣された。翌弘仁2年(811年)父・田村麻呂が没したため官職を辞するが、のち右衛門佐に任ぜられ、弘仁3年(812年)右近衛少将に遷るなど、嵯峨朝前半は武官を歴任する。
 嵯峨朝後半は陸奥守として地方官を務め、嵯峨朝末の弘仁14年(823年)従四位下に至る。淳和朝では右兵衛督として再び武官を務めた。
 天長5年(828年)閏3月9日卒去。享年42。最終官位は右兵衛督従四位下。
 父・田村麻呂ゆずりの武人で若い頃から武勇の誉れが高かったが、他に才芸はなかった。思った通りに行動し、賞賛に価するほど節操があった。しかしながら、酒の飲み過ぎが原因で病気になり没した。広野は摂津国住吉郡平野庄の開発領主で平野殿とも呼ばれた。融通念仏宗の総本山である平野の大念仏寺は、開祖良忍(聖応大師)が四天王寺で見た霊夢に基づいて坂上広野の私邸内に建てた修楽寺が前身という。広野の墓が平野の坂上公園の中にあるが、往時のものではなく後世のものである。 

坂上春子

 桓武天皇の妃となり、葛井親王,春日内親王を生む。
 桓武天皇の崩御後、摂津国住吉郡平野庄の領主で、兄弟である坂上広野を頼り平野庄に住む。坂上氏の尼寺の長寶寺(長宝寺)を開き、同寺は坂上氏累代の尼寺となる。長寶寺の寺伝や系譜によれば、明治になるまで平野の坂上氏は長寶寺に隣接して屋敷を構えていたとのことである。春子の墓は、杭全神社に隣接した平野宮町の長寶寺の墓所に坂上氏一族の墓と共にある。