中国(後漢王朝)渡来系

SU02:坂上田村麻呂  東漢 掬 ― 坂上弓束 ― 坂上田村麻呂 ― 生地尹澄 SU07:生地尹澄

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生地尹澄 生地知澄

 尹澄の代に元弘の争乱が起こった。尹澄は河内の楠木正成の妹を娶っていた関係から、子の安澄とともに正成に属して千早赤坂城に籠って幕府軍と戦った。隣接する隅田庄の隅田一族は幕府方として活動しており、尹澄らは隅田氏との抗争を続けた。やがて、幕府が滅亡して後醍醐天皇の親政による建武の新政が開始された。しかし、新政は足利尊氏の謀叛によって崩壊、南北朝の対立時代を迎えると尹澄・安澄父子は楠木正成とともに南朝方として行動した。
 建武3年(1336)、九州で再挙を図った足利尊氏が西上の軍を起こすと、尹澄は正成とともに摂津湊川で尊氏軍を迎え撃った。そして、尹澄は正成とともに華々しく討死した。

 坂上氏は高野山と対立関係にあったようで、鎌倉時代はじめの嘉禎年間(1235~38)に坂上知澄が高野山側に殺害されている。この事件の背景には、古くより坂上氏が掌握していた丹生都比売神社に納められる神馬の管理権をめぐる争いがあった。
生地俊澄
 永享初め(1429~33)、俊澄は畑山城を川北に移した。新城は相賀新城あるいは銭坂城と称され、以後、代々の生地氏の居城となった。こうして、俊澄は生地氏を復興し、中興の主と呼ばれるにいたった。しかし、俊澄以後、生地氏の動向は知られなくなる。紀伊守護畠山氏に属して戦乱の時代を生きたことは疑いないが、生地氏を語る史料は遥として見当たらない。