CHN3:後漢王朝 | 阿智使主 ― 東漢 掬 | YA01:東漢 掬 |
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東漢 掬 | 民 大火 |
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雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。ところが、雄略天皇は星川皇子を皇位につけてはならないと、大連の大伴室屋と東漢掬直に遺詔した。そのことが原因で、稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし、室屋らによって大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。 |
壬申の乱が勃発したとき、民大火は近江大津京にいたらしい。大海人皇子の挙兵を知ってその子高市皇子が大津京を脱出し、6月25日に鹿深を越えて積殖山口で大海人皇子の一行に合流したとき、皇子には民大火以外に赤染徳足,大蔵広隅,坂上国麻呂,古市黒麻呂,竹田大徳,胆香瓦安倍が従っていた。鹿深は近江国甲賀郡、積殖山口は、後の伊賀国阿拝郡柘植郷と推定される。当時は伊勢国に属した。 |
民 小鮪 | 荒田井比羅夫 |
壬申の年(672年)の6月29日に倭で挙兵した大伴吹負は、北進して及楽(奈良)に向かった。その途中、おそらく7月3日に、河内から大軍が来たという情報を稗田で得た。吹負は数百人ずつの3隊を分派して守備につかせた。そのうち、竜田に向かった300人の指揮官が、坂本財,長尾真墨,倉墻麻呂,民小鮪,谷根麻呂であった。彼らはその日平石野に宿営したが、高安城に敵軍がいると聞いてその山に登った。近江軍(大友皇子側の軍)は税倉を焼いて逃げた。 |
荒田井氏の氏名は尾張国愛智郡荒大郷(現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町に比定)に基づくと思われる。『坂上系図』が引用している『新撰姓氏録』「右京諸蕃」上の坂上大宿禰条の逸文に、刀禰直の子孫として荒田井忌寸がある。 |
東漢駒子 | 坂上熊毛 |
用明天皇2年(587年)用明天皇が崩御すると大臣・蘇我馬子は大連・物部守屋を攻め滅ぼし朝廷の実権を握って崇峻天皇を擁立する。やがて、崇峻天皇と対立関係となった馬子に命ぜられ、崇峻天皇5年(592年)11月に駒は崇峻天皇を暗殺する。その後、駒は馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪って自らの妻とするが、河上娘を穢されたことを知った馬子に殺害された(崇峻天皇暗殺の口封じともされる)。 |
駒子と甲由の間に子麻呂を置き、甲由を申田の誤りとして、熊毛を東漢坂上子麻呂の孫で、坂上申田の子とする系図もある。父の甲由が大和国高市郡の出とされるので、熊毛も同じ可能性が高い。壬申の乱が起こった際、坂上熊毛は倭京の留守司であった。倭京の倭はと読み、当時近江にあった都と別に留守司が管理していた。『日本書紀』が伝える留守司には他に高坂王があり、熊毛は王の同僚か部下であったと推測される。 |