YA01:東漢 掬 | 東漢 掬 ― 東漢爾波伎 | YA02:東漢爾波伎 |
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東漢福因 | 文 成覚 |
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推古天皇16年(608年)第三次遣隋使に大使・小野妹子に従って、高向玄理,旻,南淵請安ら7名とともに留学生として同行し、隋へ渡った。滞在は15年に及び、推古天皇31年(623年)新羅使の大使・智洗爾に従い、薬師恵日と同行して唐より帰国し、ともに唐との通交について上申している。 |
壬申の乱について記述する『日本書紀』の中に、成覚は現れない。元正朝の霊亀2年(716年)壬申の乱における功臣の子に功田が与えられた際、成覚の子息である古麻呂が含まれていることから、成覚が乱で功労があったと考えられる。孝謙朝の天平宝字元年(757年)になって、成覚が与えられた功田4町が中功にあたり、2世に伝えるべきことを太政官が決めた。 |
書 県 | 書 智徳 |
舒明天皇11年(639年)百済川の辺に百済宮と百済大寺を建てた際、大匠(建築技師の責任者)を務める。皇極天皇元年(642年)舒明天皇の崩御に際して、百済国から来日した弔問使のもとへ阿曇山背比羅夫,草壁磐金と共に百済国の様子を訪ねるために遣わされ、義慈王即位後の百済の政変に関する情報を入手した。 |
弘文天皇元年(672年)壬申の乱の勃発時、書智徳は大海人皇子の舎人であり、6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発った際、草壁皇子,忍壁皇子や20人ほどの他の舎人と共に智徳は皇子に当初から従った。 |
書 薬 | |
壬申の年(672年)の6月、大海人皇子の挙兵を知った近江宮の朝廷は、鎮圧のための軍の動員を命ずる使いを各地に遣わした。このうち東国への使者になったのが、韋那磐鍬,書薬,忍坂大摩侶であった。6月26日夜、彼らは美濃国の不破にさしかかった。その頃美濃は大海人皇子の味方になっていたが、彼らがそのことを知っていたかはわからない。書薬と忍坂大摩侶は、伏兵に後方を遮断され、そのまま捕らえられた。韋那磐鍬は遅れてゆっくり進んでおり、前方の変事をみて引き返した。 |