後漢王朝

 後漢王朝 CHN3:後漢王朝

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光武帝 献帝

 漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。「漢委奴国王」の金印を倭の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。
 劉秀は景帝の7男で長沙王となった劉発の末裔である。幼少の頃は非常に慎重かつ物静かな性格とされていた。のちに、憧れの陰麗華を娶ることとなる。
 王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想として現実を無視した政策を実施したため、民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。
 22年(地皇3年)冬、劉秀の兄の劉縯が挙兵する。慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。平林軍と連合した舂陵軍は南陽宛城を包囲した後、劉玄を更始帝として擁立した。
 23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から大軍を出発させた。政府軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。政府軍は劉秀やその部下の奮闘により大敗を喫した(昆陽の戦い)。
 昆陽の勝利に前後して劉縯も宛城を落城させている。これにより劉縯・劉秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。更始帝は劉縯を殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。
 それまで傍観していた地方の豪族が次々と更始軍に合流し、更始軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽と長安(当時は常安)を陥落させ、更始帝は洛陽,長安へ遷都する。劉秀は更始帝と側近たちに危険視されたが、河北へ赴任を命ぜられたことで劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。
 23年(更始元年)冬、劉秀は厳しい行軍と極寒の中、河北へと向かう。その後は劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和成郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植,耿純が陣営に加わる(雲台二十八将)。 
 劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王劉楊の姪の郭聖通(のちの郭皇后)を娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。こうして勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。
 劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀はこれを拒否し、自立する道を選択した。
 25年(建武元年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。
 この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後に殺害される。その赤眉軍も長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。27年(建武3年)、光武帝(劉秀)の派遣した大司徒鄧禹・征西大将軍馮異は赤眉軍攻撃を行う。一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。
 30年(建武6年)には山東を平定、33年(建武9年)には隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ、36年(建武12年)に蜀の公孫述を滅ぼし、ここに中国統一を達成した。
 光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽(雒陽)をそのまま都城とした。
 また光武帝は中国統一と前後して奴卑の解放や租税の軽減、軍士の帰農といった政策により王朝の基礎となる人民の生活の安定を図る一方、統治機構を整備して支配を確立した。56年に建武中元と改元して封禅の儀式を実施し、その翌年に崩御した。

 中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し(少帝弁)、劉協は勃海王に封じられた。劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにも関わらず、父帝の死を悼み悲しんだ。その様子を見た大臣たちは皆心を痛めたという。同年秋7月、陳留王に移封される。
 当時、朝廷では混乱が続き、最終的に野心を抱いていた并州牧の董卓は、陳留王を皇帝に擁立された。
 初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した。初平3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われたが、そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切ったが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。
 興平2年(195年)2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた。3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。
 建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。
 建安元年(196年)に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった。建安19年(214年)には献帝の皇后伏寿が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とすることを余儀なくされた。
 建安25年(220年)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった。
 劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使うことを許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。
 益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であることから曹操の魏王に対抗するため漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も後に呉国皇帝を称し、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。
 その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。

阿知王

都加王

 3~4世紀頃、または5世紀前半の応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。
 『続日本紀』延暦4年(785年)6月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、坂上苅田麻呂が述べている。『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。
 また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主,西波多村主,平方村主,石村村主,飽波村主,危寸村主,長野村主,俾加村主,茅沼山村主,高宮村主,大石村主,飛鳥村主,西大友村主,長田村主,錦部村主,田村村主,忍海村主,佐味村主,桑原村主,白鳥村主,額田村主,牟佐村主,田賀村主,鞍作村主,播磨村主,漢人村主,今来村主,石寸村主,金作村主,尾張の次角村主があるという。
 漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前郷に住んだ。一時は9割が漢人族となり、漢人族の民忌寸,蔵垣忌寸,蚊屋忌寸,文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた。
 その後、摂津,参河,近江,播磨,阿波にも移住した。ほかに美濃,越前,備中,周防,讃岐,伊勢,三河,甲斐,河内,丹波,美作,備前,肥前,豊後にも住んだ。
 『古事記』によると、住吉仲皇子が黒媛(羽田矢代の娘)との密通の発覚を恐れ、履中天皇に対し反乱を起こし天皇の宮を燃やした際に、平群木菟や物部大前と共に履中天皇を逃した。その功により後に「蔵官」に任じられた

 『日本書紀』応神天皇20年9月条では、倭漢直の祖の阿知使主およびその子の都加使主が、自分達の党類17県を率いて来朝したと見える。
次いで応神天皇37年2月1日条によれば、阿知使主と都加使主は呉(中国の江南の地)に縫工女を求めるため遣わされ、呉王から兄媛・弟媛・呉織・穴織を授けられた。応神天皇41年2月に阿知使主らは呉から筑紫に至り、そこで胸形大神の求めに応じて兄媛を同神に献上した。そして残る3人を連れて帰ったが、既に天皇は崩じていたため、大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に3人を献上したという。
 さらに雄略天皇7年条によれば、天皇は大伴室屋に詔して、東漢直掬(東漢掬直)に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原・下桃原・真神原の3所に遷居させたという。また雄略天皇23年8月7日条によれば、天皇は大伴室屋,東漢掬直に遺詔し、皇太子(のちの清寧天皇)を援けて星川王(星川皇子)を滅ぼさせている。
 以上より都加使主と東漢掬直とは別人物と考えられる。
 『新撰姓氏録』逸文では、都賀使主から3腹の氏族が分かれたと記されるが、これについても事実ではなく、複数の渡来系集団が後世に擬制的同族結合を結んだ際に架上されたものと考えられている。
 また、『日本書紀』において都加使主と東漢掬とが異なる時期に記述されることについては、東漢掬の人物名が遡及して東漢氏の祖先伝承に組み込まれ、都加使主の伝承が形成されたとする説が挙げられている。