3~4世紀頃、または5世紀前半の応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。 『続日本紀』延暦4年(785年)6月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、坂上苅田麻呂が述べている。『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。 また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主,西波多村主,平方村主,石村村主,飽波村主,危寸村主,長野村主,俾加村主,茅沼山村主,高宮村主,大石村主,飛鳥村主,西大友村主,長田村主,錦部村主,田村村主,忍海村主,佐味村主,桑原村主,白鳥村主,額田村主,牟佐村主,田賀村主,鞍作村主,播磨村主,漢人村主,今来村主,石寸村主,金作村主,尾張の次角村主があるという。 漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前郷に住んだ。一時は9割が漢人族となり、漢人族の民忌寸,蔵垣忌寸,蚊屋忌寸,文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた。 その後、摂津,参河,近江,播磨,阿波にも移住した。ほかに美濃,越前,備中,周防,讃岐,伊勢,三河,甲斐,河内,丹波,美作,備前,肥前,豊後にも住んだ。 『古事記』によると、住吉仲皇子が黒媛(羽田矢代の娘)との密通の発覚を恐れ、履中天皇に対し反乱を起こし天皇の宮を燃やした際に、平群木菟や物部大前と共に履中天皇を逃した。その功により後に「蔵官」に任じられた
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『日本書紀』応神天皇20年9月条では、倭漢直の祖の阿知使主およびその子の都加使主が、自分達の党類17県を率いて来朝したと見える。 次いで応神天皇37年2月1日条によれば、阿知使主と都加使主は呉(中国の江南の地)に縫工女を求めるため遣わされ、呉王から兄媛・弟媛・呉織・穴織を授けられた。応神天皇41年2月に阿知使主らは呉から筑紫に至り、そこで胸形大神の求めに応じて兄媛を同神に献上した。そして残る3人を連れて帰ったが、既に天皇は崩じていたため、大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に3人を献上したという。 さらに雄略天皇7年条によれば、天皇は大伴室屋に詔して、東漢直掬(東漢掬直)に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原・下桃原・真神原の3所に遷居させたという。また雄略天皇23年8月7日条によれば、天皇は大伴室屋,東漢掬直に遺詔し、皇太子(のちの清寧天皇)を援けて星川王(星川皇子)を滅ぼさせている。 以上より都加使主と東漢掬直とは別人物と考えられる。 『新撰姓氏録』逸文では、都賀使主から3腹の氏族が分かれたと記されるが、これについても事実ではなく、複数の渡来系集団が後世に擬制的同族結合を結んだ際に架上されたものと考えられている。 また、『日本書紀』において都加使主と東漢掬とが異なる時期に記述されることについては、東漢掬の人物名が遡及して東漢氏の祖先伝承に組み込まれ、都加使主の伝承が形成されたとする説が挙げられている。
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