大覚寺統に仕え、医師でありながら後宇多上皇の上北面となるなど重用された。後醍醐天皇が即位した文保2年(1318年)に施薬院使に任じられた。 元徳2年(1330年)7月25日に典薬頭に任じられ、翌元弘元年(1331年)には6月15日に宮内卿に抜擢されている。ところが、元弘の変で後醍醐天皇の倒幕計画に関与した疑いで六波羅探題に拘束され、間もなく出家に追い込まれた。法名は寂阿。康永3年(1344年)6月22日に京都にて死去。 二条為世門下の二条派歌人として知られ、忠房親王の歌壇の常連として二条道平や小倉実教などとともに名を連ねている。 忠守を『増鏡』の著者と比定する説がある。荒木良雄は当代きっての『源氏物語』研究家で歌道に精通していることをもって、忠守著者説を唱える。近年においては『増鏡』著者の有力説とされる二条良基の研究家である小川剛生の見解として、二条良基が『増鏡』成立に深く関わったとしつつも、現役の公家政治家でかつ最終的に持明院統に仕えた良基を直接の筆者とすることの困難を挙げて、「良基監修・忠守筆者」説を唱えている。
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